DIARY
バトンを繋ぐ
【バトンを繋ぐ】ガキの頃から一番の遊びはものづくりだった。遊びがそのまま仕事になるってのは幸せな事だが、キライにならずに続けていくってことは案外難しいように思う。飯を食う為のオシゴトになってしまうからだ。ただメシ食って寝るだけじゃダメなんだろうか?生きる意味や意義って、目標や目的って必要だろうか?ダメじゃないし必要ないと思う。ただ、楽かどうかだ。苦しいだけならやめればいい。苦を楽にするために目標や目的が必要なのだと思う。ごく一部の本物の天才を除いた俗に言う才能ある人っていうのは、苦しみの先を上手に見出すクリエイションが出来てる人だ。今、得ている全て。衣食住、生活に必要な物質も、生命としての肉体も、人としての精神も、全て誰かに繋いでもらったものだ。自分一人で手に入れたものなど何一つ無い。与えられた環境の中で、繋いでもらった肉体と精神を持って生かされている。大きな流れの中であらがう事も出来ずにただ生きていく事に変わりはないが、命以外の物質や精神を繋ぎたいと願うのは人間が持つ邪(よこしま)な考えなのだろうか?自分の生きた証を残したいと、爪痕を刻みたいと努力する事は、人間特有の下らないエゴなのだろうか?生きて命を繋ぐというのは動物の本能だ。より良い環境を求めて活動するのもまた動物の本能だろう。本能には邪な作為もエゴも無い。そうやって得た環境を仲間と共に喜び、共有して次の世代に繋ぎたいと純粋に思う。社会に対して自分たちが出来る事はしていきたいと思う。【最高な家具を創って、最高に喜んでもらって、最高にカッコ良くある。】家具づくりを通じて、仲間達、お客様、未来の後輩、そして俺たち自身も、みんながワクワク出来る様な挑戦をし続け、心に響く音楽みたいな家具を創るサイコーにイカしたロックバンドみたいなカンパニーであること。これがKOMAの企業理念だ。ガキの頃から作ることが好きだった。ゲームなどは一切ヤラずに粘土、折り紙、LEGO、彫刻、プラモ、ラジコンなどなど、ありとあらゆる工作をやったように思う。そこには自由なクリエイションと喜びがあった。それがそのまま大人になった。だから、ものづくりを通じて一生ワクワクしていたい。自由なクリエイションがない下請けじゃなくて。クラフトとして、ニッチなマーケットで細々と貧乏しながらじゃなくて。好きなものづくりでどうにかメシが食えてるなんて自己満足じゃなくて。社会的な結果を見せたい。小さな製造業でも大手メーカーのプロダクトとメジャーなマーケットで渡り合いたい。工業製品ではなく、本物のクラフトマンシップのあるプロダクトというジャンルを一般市場の中でもっとキチンと確立したい。そして、より多くの人に触れて喜んでもらえたら嬉しい。運命に身を委ねながらも常に自ら選択する挑戦者であり続けたいし、開拓者として先頭を走りたい。思ったように行かない事ばかりで毎日もうやめたいと思うけど、その苦楽の中にこそ本能的に喜べる何かがある。今、自分たちに出来る精一杯の積み重ねが創れる何かがある。そうやって先輩達が繋いでくれたバトンを今度は俺たちなりのカタチにして次の世代に繋いでいけたら嬉しい。 Since I was child, my favorite hobby have been making something. I should be happy to make my favorite thing as my profession, however, it would not be easy...
バトンを繋ぐ
【バトンを繋ぐ】ガキの頃から一番の遊びはものづくりだった。遊びがそのまま仕事になるってのは幸せな事だが、キライにならずに続けていくってことは案外難しいように思う。飯を食う為のオシゴトになってしまうからだ。ただメシ食って寝るだけじゃダメなんだろうか?生きる意味や意義って、目標や目的って必要だろうか?ダメじゃないし必要ないと思う。ただ、楽かどうかだ。苦しいだけならやめればいい。苦を楽にするために目標や目的が必要なのだと思う。ごく一部の本物の天才を除いた俗に言う才能ある人っていうのは、苦しみの先を上手に見出すクリエイションが出来てる人だ。今、得ている全て。衣食住、生活に必要な物質も、生命としての肉体も、人としての精神も、全て誰かに繋いでもらったものだ。自分一人で手に入れたものなど何一つ無い。与えられた環境の中で、繋いでもらった肉体と精神を持って生かされている。大きな流れの中であらがう事も出来ずにただ生きていく事に変わりはないが、命以外の物質や精神を繋ぎたいと願うのは人間が持つ邪(よこしま)な考えなのだろうか?自分の生きた証を残したいと、爪痕を刻みたいと努力する事は、人間特有の下らないエゴなのだろうか?生きて命を繋ぐというのは動物の本能だ。より良い環境を求めて活動するのもまた動物の本能だろう。本能には邪な作為もエゴも無い。そうやって得た環境を仲間と共に喜び、共有して次の世代に繋ぎたいと純粋に思う。社会に対して自分たちが出来る事はしていきたいと思う。【最高な家具を創って、最高に喜んでもらって、最高にカッコ良くある。】家具づくりを通じて、仲間達、お客様、未来の後輩、そして俺たち自身も、みんながワクワク出来る様な挑戦をし続け、心に響く音楽みたいな家具を創るサイコーにイカしたロックバンドみたいなカンパニーであること。これがKOMAの企業理念だ。ガキの頃から作ることが好きだった。ゲームなどは一切ヤラずに粘土、折り紙、LEGO、彫刻、プラモ、ラジコンなどなど、ありとあらゆる工作をやったように思う。そこには自由なクリエイションと喜びがあった。それがそのまま大人になった。だから、ものづくりを通じて一生ワクワクしていたい。自由なクリエイションがない下請けじゃなくて。クラフトとして、ニッチなマーケットで細々と貧乏しながらじゃなくて。好きなものづくりでどうにかメシが食えてるなんて自己満足じゃなくて。社会的な結果を見せたい。小さな製造業でも大手メーカーのプロダクトとメジャーなマーケットで渡り合いたい。工業製品ではなく、本物のクラフトマンシップのあるプロダクトというジャンルを一般市場の中でもっとキチンと確立したい。そして、より多くの人に触れて喜んでもらえたら嬉しい。運命に身を委ねながらも常に自ら選択する挑戦者であり続けたいし、開拓者として先頭を走りたい。思ったように行かない事ばかりで毎日もうやめたいと思うけど、その苦楽の中にこそ本能的に喜べる何かがある。今、自分たちに出来る精一杯の積み重ねが創れる何かがある。そうやって先輩達が繋いでくれたバトンを今度は俺たちなりのカタチにして次の世代に繋いでいけたら嬉しい。 Since I was child, my favorite hobby have been making something. I should be happy to make my favorite thing as my profession, however, it would not be easy...
感謝する人たち4
【感謝する人たち4】御歳73歳の緑川 敬二郎さん。誰よりも最高にカッコいいと思う人だ。「ただの明日じゃない。人に会う約束がある明日だから今日も生きてるんだ。」なんて言う人なつっこくて底抜けに明るい人だ。家具業界で50年以上生きてきた人に対して俺ごとき小僧が大変失礼な物言いだが、彼にはこれと言って特筆する目に見える特技も華々しい実績も分かりやすい立場も無い。職人でもなくクリエイターでもない。あえて言うなら営業かな?「家具業界に生きてる人」なのだ。現在KOMAは、ありがたい事に各方面で活躍されている大先輩方に叱咤激励とともに可愛がってもらっている。彼らはそれぞれに才能豊かでいつも多くの刺激を頂くと同時に様々な機会を与えてくれる。尊敬もしている。でも、その誰よりも俺にとって最高にイカしてるのが緑川さんだ。日田工芸の勢い余った若い衆という感じで、俺の事は修業時代から知っていると言っていたのを覚えているが、正直に言うと緑川さんとの出会いの瞬間や切っ掛けは覚えていない。気が付けばいつの間にか何となく側にいてくれた。そして今は本当に感謝している人だ。分かりやすい特技や華々しい実績もない。だから俺みたいな阿呆は中々そのありがたさに気が付かなかった。2007年。俺が29歳の頃。2003年に開業したKOMAは多くの人に助けてもらいながら建設業者やリフォーム業者、店舗内装業者の下請けをしながらどうにかこうにか生き残っていた。その頃は店舗什器や新築の壁面収納家具工事など造作家具も多く造っていた。まあ、今だから言うとまあまあ儲かっていた。下請けというのは元請けに対するほんの少しの営業以外は製作だけに集中できるので、ある程度の固定客が開拓できていれば余計な経費は掛からない。エンドユーザーに対するアプローチは宣伝広告費、ショールームの維持費、広報、販売、企画、営業などの様々な人件費を抱えながら元請けがやってくれている。それなりに技術もあったし規模も3人。自分たちの食い扶持くらいの仕事量は人の協力もあってすぐに確保できた。自分たちにしか出来ない仕事からやっていって、残った簡単な仕事は職人仲間に発注する。要するにカタチの上では仲間に孫請けさんになってもらう。職人同士だから阿吽の呼吸で、製作に関わる打ち合わせなどが必要ない。だから、製作図面をFAXしておしまいだ。右から左で10%〜30%の利益。こんなウマい話はない。そうだ。本当にウマい話なんて無いのだ。当然しっぺ返しを喰らう。またドン底に落ちる。今思えば、この頃は墜落寸前から人並みにメシが食える様になれた事がただ嬉しかったのだ。でも、なんだか地に脚がついていなかった様に思う。KOMAのような小さな製造業にとって世間の景気動向などはほとんど関係ない。リーマンショックや構造計算書偽造問題などで業界の仕事は減っていたようだが事件当時は全く関係なかった。取引先の建築業者などが体力の尽きた順に次々と倒産し始めた2008年あたりからなんとなく意識するようになった。ある日突然、取引先と連絡がつかなくなる。気付いた時にはもう遅い。そして後日、弁護士からの倒産の通知が送られてくる。当然、金は支払われない。不良債権だ。100万の取引先もあれば300万なんていう取引先もいた。合計で2000万円近くヤラれた。もらえないけど、こっちは支払いがある。ヤッちまった。。。入金がゼロで支払いは600万なんていう月もあった。月末の支払いを考えると柄にもなく眠れなかった。夜中に一人、缶コーヒー片手に川沿いのベンチで貧乏揺すりをしながら過ごした。つい先週までニコニコ話をしていた取引先の社長や担当者たちの顔が浮かんだ。「畜生クソッタレ」を何千回も唱えた。それにしても9月の雑草に覆われた川沿いで夜中、一度も蚊に刺されなかった。蚊にとっても血が毒に感じる程、ものスゴい負のオーラを発していたんだろうと思う。とにかく払う。出来なきゃおしまい。一ヶ月でどうにかするしかねえ。これだけ決めて朝を迎えた。助けてくれたのはやっぱり仲間たちだった。ATOMリビンテックの上田さんをはじめ、事情を聞いてくれた仲間たちが在庫の家具を現金で買ってくれた。支払いに追われる月は続いたが、どうにか首の皮が繋がった。本当にありがたい。やっぱりどこにも足を向けて眠れないから立って寝るしかない。当然、貯金はゼロになって振り出しに戻ったが大きな経験ができた。仲間のありがたさを知った。オイシイ話は続かないってことも。笑思えば、そんな仲間たちとの最初の出会いの切っ掛けをつくってくれたのが緑川さんだった。ただ、事態は終わらない。元請けが倒産したと同時に多くの下請けたちも潰れた。しかし、孫請けとして発信や集客、営業などに余計な経費を掛けず、地道にコツコツ製作に集中してきた人達の多くが生き残った。それが意味するものは相場価格の値崩れだ。孫請けさんたちの価格が表に出てくる。依然として少ない仕事量に対する価格競争が始まる。とてもじゃないけど太刀打ちできない。2009年独自路線を目指すしかない。俺らだけの強みを活かそう。無垢の家具で勝負しよう。俺らにしか出来ない仕事をしよう。KOMAオリジナル家具をエンドユーザーに直接アプローチしよう。その為には会社として足りない機能が多くある。会社規模も3人じゃ足りない。すぐに切り替えられる訳ではないが、今のままじゃ潰れる。時間がない。家具は造れるけど売り方が解らない。見て知ってもらえる機会と場所がない。そして経費や時間、労力にも限りがある。最低限の商品や在庫は用意できて少しずつは進んでいたが、コレといった機会のないまま1年半が過ぎた。焦っていた。そんな時2011年4月。当時疎遠になっていた伊勢丹との関係を繋いでくれたのも緑川さんだった。新宿伊勢丹リビングフロアのメインステージ45平米のスペースで「KOMA家具展」を2週間。最高の環境だった。震災3,11の直後ということもあり売上目標の300万も売れるだろうか?と心配だった。結果は450万。俺たちだってヤレるじゃん!!ただただ嬉しかった。その後、各業界の大先輩方から多くの刺激と共に多様な機会を与えてもらえるようになった。それらのプロジェクトでの実績がまた次の仕事を呼んでくれた。そんな尊敬する彼らとの最初の切っ掛けを生んでくれたのもやはり緑川さんだった。人や機会を紹介する場合。あたりまえだが普通は「紹介してあげる」という立ち位置だろう。緑川さんは違う。「松岡〜めんどくせえかもしれねえけど、俺を助けると思って来てくれよ〜オマエしかいないんだよ〜」だ。いつもこう言って人や機会を繋いでくれていた。そしてウマくいったら「さすが松岡〜!頼んでよかった〜!」だ。恩を着せるなんて一切ない。「俺なんかさ、な〜んにも無えけどさ、こんな俺でもさ、俺にしか出来ない事があるんだよ。」そう言う緑川さんは自分の「分」の中で清々しく生きている人の代表格だ。際立った特技や才能など関係ない。彼の心に比べればどれも陳腐なもんだ。そんな緑川さんが言うのだ。「あと10年現役でいたいんだ。だってまだまだ自分自身に納得いってねえんだよ」カッコ良すぎるぜ!イカしてる!そんな緑川さんはちょくちょくKOMAの工房に顔を出してくれる。たまに飲みに行ったりもする。色々なアドバイスをくれるが、俺は聞かない。「うるせえな〜俺にクチ出しすんじゃねえよ〜笑」なんて生意気を言うと「ハハハ〜それが正解!お前の好きにヤルのが業界の未来だ!」な〜んて言ってくれる。でも彼が言ってくれた事は全部覚えている。亀井とギクシャクしてる時。「お前は幸せだな〜文句が言いあえる仲間がいるんだもんな〜」若い衆に腹を立てている時。「同じ事を何度も言えばイイじゃないの〜それがお前の勉強になるんだからさ〜」そして「今日も松岡に会えて良かった。良い話が聞けた。勉強になった〜」なんて彼の倅よりも年下の俺に言って帰っていくのだ。彼が繋いでくれているバトンを俺が次に繋ぐ為に、俺はもっと良い家具をつくろうと思う。 Mr. Keiji Midorikawa is in his 73 years old. I recognize him as the most cool person. He is extremely friendly and bright saying, "It is not mere...
感謝する人たち4
【感謝する人たち4】御歳73歳の緑川 敬二郎さん。誰よりも最高にカッコいいと思う人だ。「ただの明日じゃない。人に会う約束がある明日だから今日も生きてるんだ。」なんて言う人なつっこくて底抜けに明るい人だ。家具業界で50年以上生きてきた人に対して俺ごとき小僧が大変失礼な物言いだが、彼にはこれと言って特筆する目に見える特技も華々しい実績も分かりやすい立場も無い。職人でもなくクリエイターでもない。あえて言うなら営業かな?「家具業界に生きてる人」なのだ。現在KOMAは、ありがたい事に各方面で活躍されている大先輩方に叱咤激励とともに可愛がってもらっている。彼らはそれぞれに才能豊かでいつも多くの刺激を頂くと同時に様々な機会を与えてくれる。尊敬もしている。でも、その誰よりも俺にとって最高にイカしてるのが緑川さんだ。日田工芸の勢い余った若い衆という感じで、俺の事は修業時代から知っていると言っていたのを覚えているが、正直に言うと緑川さんとの出会いの瞬間や切っ掛けは覚えていない。気が付けばいつの間にか何となく側にいてくれた。そして今は本当に感謝している人だ。分かりやすい特技や華々しい実績もない。だから俺みたいな阿呆は中々そのありがたさに気が付かなかった。2007年。俺が29歳の頃。2003年に開業したKOMAは多くの人に助けてもらいながら建設業者やリフォーム業者、店舗内装業者の下請けをしながらどうにかこうにか生き残っていた。その頃は店舗什器や新築の壁面収納家具工事など造作家具も多く造っていた。まあ、今だから言うとまあまあ儲かっていた。下請けというのは元請けに対するほんの少しの営業以外は製作だけに集中できるので、ある程度の固定客が開拓できていれば余計な経費は掛からない。エンドユーザーに対するアプローチは宣伝広告費、ショールームの維持費、広報、販売、企画、営業などの様々な人件費を抱えながら元請けがやってくれている。それなりに技術もあったし規模も3人。自分たちの食い扶持くらいの仕事量は人の協力もあってすぐに確保できた。自分たちにしか出来ない仕事からやっていって、残った簡単な仕事は職人仲間に発注する。要するにカタチの上では仲間に孫請けさんになってもらう。職人同士だから阿吽の呼吸で、製作に関わる打ち合わせなどが必要ない。だから、製作図面をFAXしておしまいだ。右から左で10%〜30%の利益。こんなウマい話はない。そうだ。本当にウマい話なんて無いのだ。当然しっぺ返しを喰らう。またドン底に落ちる。今思えば、この頃は墜落寸前から人並みにメシが食える様になれた事がただ嬉しかったのだ。でも、なんだか地に脚がついていなかった様に思う。KOMAのような小さな製造業にとって世間の景気動向などはほとんど関係ない。リーマンショックや構造計算書偽造問題などで業界の仕事は減っていたようだが事件当時は全く関係なかった。取引先の建築業者などが体力の尽きた順に次々と倒産し始めた2008年あたりからなんとなく意識するようになった。ある日突然、取引先と連絡がつかなくなる。気付いた時にはもう遅い。そして後日、弁護士からの倒産の通知が送られてくる。当然、金は支払われない。不良債権だ。100万の取引先もあれば300万なんていう取引先もいた。合計で2000万円近くヤラれた。もらえないけど、こっちは支払いがある。ヤッちまった。。。入金がゼロで支払いは600万なんていう月もあった。月末の支払いを考えると柄にもなく眠れなかった。夜中に一人、缶コーヒー片手に川沿いのベンチで貧乏揺すりをしながら過ごした。つい先週までニコニコ話をしていた取引先の社長や担当者たちの顔が浮かんだ。「畜生クソッタレ」を何千回も唱えた。それにしても9月の雑草に覆われた川沿いで夜中、一度も蚊に刺されなかった。蚊にとっても血が毒に感じる程、ものスゴい負のオーラを発していたんだろうと思う。とにかく払う。出来なきゃおしまい。一ヶ月でどうにかするしかねえ。これだけ決めて朝を迎えた。助けてくれたのはやっぱり仲間たちだった。ATOMリビンテックの上田さんをはじめ、事情を聞いてくれた仲間たちが在庫の家具を現金で買ってくれた。支払いに追われる月は続いたが、どうにか首の皮が繋がった。本当にありがたい。やっぱりどこにも足を向けて眠れないから立って寝るしかない。当然、貯金はゼロになって振り出しに戻ったが大きな経験ができた。仲間のありがたさを知った。オイシイ話は続かないってことも。笑思えば、そんな仲間たちとの最初の出会いの切っ掛けをつくってくれたのが緑川さんだった。ただ、事態は終わらない。元請けが倒産したと同時に多くの下請けたちも潰れた。しかし、孫請けとして発信や集客、営業などに余計な経費を掛けず、地道にコツコツ製作に集中してきた人達の多くが生き残った。それが意味するものは相場価格の値崩れだ。孫請けさんたちの価格が表に出てくる。依然として少ない仕事量に対する価格競争が始まる。とてもじゃないけど太刀打ちできない。2009年独自路線を目指すしかない。俺らだけの強みを活かそう。無垢の家具で勝負しよう。俺らにしか出来ない仕事をしよう。KOMAオリジナル家具をエンドユーザーに直接アプローチしよう。その為には会社として足りない機能が多くある。会社規模も3人じゃ足りない。すぐに切り替えられる訳ではないが、今のままじゃ潰れる。時間がない。家具は造れるけど売り方が解らない。見て知ってもらえる機会と場所がない。そして経費や時間、労力にも限りがある。最低限の商品や在庫は用意できて少しずつは進んでいたが、コレといった機会のないまま1年半が過ぎた。焦っていた。そんな時2011年4月。当時疎遠になっていた伊勢丹との関係を繋いでくれたのも緑川さんだった。新宿伊勢丹リビングフロアのメインステージ45平米のスペースで「KOMA家具展」を2週間。最高の環境だった。震災3,11の直後ということもあり売上目標の300万も売れるだろうか?と心配だった。結果は450万。俺たちだってヤレるじゃん!!ただただ嬉しかった。その後、各業界の大先輩方から多くの刺激と共に多様な機会を与えてもらえるようになった。それらのプロジェクトでの実績がまた次の仕事を呼んでくれた。そんな尊敬する彼らとの最初の切っ掛けを生んでくれたのもやはり緑川さんだった。人や機会を紹介する場合。あたりまえだが普通は「紹介してあげる」という立ち位置だろう。緑川さんは違う。「松岡〜めんどくせえかもしれねえけど、俺を助けると思って来てくれよ〜オマエしかいないんだよ〜」だ。いつもこう言って人や機会を繋いでくれていた。そしてウマくいったら「さすが松岡〜!頼んでよかった〜!」だ。恩を着せるなんて一切ない。「俺なんかさ、な〜んにも無えけどさ、こんな俺でもさ、俺にしか出来ない事があるんだよ。」そう言う緑川さんは自分の「分」の中で清々しく生きている人の代表格だ。際立った特技や才能など関係ない。彼の心に比べればどれも陳腐なもんだ。そんな緑川さんが言うのだ。「あと10年現役でいたいんだ。だってまだまだ自分自身に納得いってねえんだよ」カッコ良すぎるぜ!イカしてる!そんな緑川さんはちょくちょくKOMAの工房に顔を出してくれる。たまに飲みに行ったりもする。色々なアドバイスをくれるが、俺は聞かない。「うるせえな〜俺にクチ出しすんじゃねえよ〜笑」なんて生意気を言うと「ハハハ〜それが正解!お前の好きにヤルのが業界の未来だ!」な〜んて言ってくれる。でも彼が言ってくれた事は全部覚えている。亀井とギクシャクしてる時。「お前は幸せだな〜文句が言いあえる仲間がいるんだもんな〜」若い衆に腹を立てている時。「同じ事を何度も言えばイイじゃないの〜それがお前の勉強になるんだからさ〜」そして「今日も松岡に会えて良かった。良い話が聞けた。勉強になった〜」なんて彼の倅よりも年下の俺に言って帰っていくのだ。彼が繋いでくれているバトンを俺が次に繋ぐ為に、俺はもっと良い家具をつくろうと思う。 Mr. Keiji Midorikawa is in his 73 years old. I recognize him as the most cool person. He is extremely friendly and bright saying, "It is not mere...
松岡家の子供達
【松岡家の子供達】2000年 修行開始に産まれた長女。2003年 独立の時に産まれた長男。2009年 自社製品展開の時に次女。新たな挑戦の時、踏ん張りどころの度に産まれてきてくれた子供達。おかげさんで逃げないでいられた。やせ我慢ができた。ヤルしかねえって思えた。思えば親父らしい事など何もしていない。母子家庭のような状態だ。俺が親父として彼らに出来る事は、ただ愛おしく思うことだけだ。俺は俺でいっぱいいっぱいだ。教えたい事なんて特に無いけど、ただ見て伝わってほしいと思う。彼らに伝えたいのは、平等なんてものは無いってこと。容姿、能力、性格、環境、生まれながらにどこにも平等は無い。1日24時間。1年365日。この時間てやつですら平等ではない。与えられた時間と自ら選択し活動できる時間とでは全くの別ものだ。いつも当たりまえに不平等で理不尽だ。だからこそ人間は自由だということ。何一つ嘆く事なんて無い。夢や目標なんかに縛られないでほしい。そんな小さなことの為に自由を失ってはいけない。もっともっと大きな流れに沿って生きてほしい。大きな見方をすれば、自分の根本は変えられない。自分が出来る事や能力なんてそう多くはないし増える事もない。与えられた自分の「分」なんてものは既に決まっていてこの先も動かしようが無い。だから、どう足掻いても大きく未来は変えられない。もう既に決まっているストーリーの中で生きていると思う。全ての事はもう全部決まっている事なんだと思っている。あくまで自分の「分」の中でしか生きられない。分相応ってやつだ。それに抗うと進めなくなる。夢や目標がスムーズな流れの邪魔をする。求めた自由は遠ざかる。そんな事より今この瞬間を受け入れて大きな流れに身を任せること。自分の出来る事、人から求めてもらえる事をただいつも一生懸命やり続ければいい。そうやって自分と社会が繋がっていく。それが自由に繋がっている。だから見えない未来を怖がる必要は無い。必ず繋がっていくからだ。んで、いつか自分の生きる場所が見つかると良いなと思う。水なのか大地なのか、それとも空か。水なら海なのか川なのか湖か。もしかしたら池や沼かもしれない。憧れや理想なんかじゃなくて、本当に自分にとって心地の良いところ。沼より大海の方がイカしてるように感じるかもしれない。でもダメだ。沼の生物は海では生きられない。逆も同じ。自分は自分なのだ。理想とは違うかもしれないけど、それを受け入れられた時に自由は無限に広がる。自由とは社会と繋がれたことで、たった今この瞬間に無限に広がった選択肢。自由を与えてくれるのは自らの分を全うする社会に対する責任だ。職種の話じゃない。もちろん立場やお金の話でもない。心の在るべき場所の話だ。もっと生意気を言えば魂の拠り所だ。いつか、これの為に生きてきたんだと思える時が来る。そうやってきっと天命ってのに出会えるんだとと思う。とは言えこの親父もまだまだもがいている。せっかく乗っかれた心地良い大きな流れについ抗って見失ってしまう。まだ自分てもんが理解できていない。納得しきれていない。自分の小さな夢や目標に縛られてしまう。でも、それでいいんだと思っている。一生こんな感じかもな。とも思っている。自己採点ようやく20点の俺が今思えることだ。この境地に辿り着けた訳ではない。何となくそう思い始めたということだ。最近、中三の長女に言われた。「お父ちゃんがお父ちゃんで良かった」「あたりめえじゃん。自信あるぜ〜笑」と答えた。俺は彼らに本当に感謝している。カッコつけるためにやせ我慢ができた。お陰でどうにかこうにか格好がついている。 2000 First daughter was born at the beginning of my training. 2003 First son was born at the establishing own company. 2009 Second daughter was born when striating own...
松岡家の子供達
【松岡家の子供達】2000年 修行開始に産まれた長女。2003年 独立の時に産まれた長男。2009年 自社製品展開の時に次女。新たな挑戦の時、踏ん張りどころの度に産まれてきてくれた子供達。おかげさんで逃げないでいられた。やせ我慢ができた。ヤルしかねえって思えた。思えば親父らしい事など何もしていない。母子家庭のような状態だ。俺が親父として彼らに出来る事は、ただ愛おしく思うことだけだ。俺は俺でいっぱいいっぱいだ。教えたい事なんて特に無いけど、ただ見て伝わってほしいと思う。彼らに伝えたいのは、平等なんてものは無いってこと。容姿、能力、性格、環境、生まれながらにどこにも平等は無い。1日24時間。1年365日。この時間てやつですら平等ではない。与えられた時間と自ら選択し活動できる時間とでは全くの別ものだ。いつも当たりまえに不平等で理不尽だ。だからこそ人間は自由だということ。何一つ嘆く事なんて無い。夢や目標なんかに縛られないでほしい。そんな小さなことの為に自由を失ってはいけない。もっともっと大きな流れに沿って生きてほしい。大きな見方をすれば、自分の根本は変えられない。自分が出来る事や能力なんてそう多くはないし増える事もない。与えられた自分の「分」なんてものは既に決まっていてこの先も動かしようが無い。だから、どう足掻いても大きく未来は変えられない。もう既に決まっているストーリーの中で生きていると思う。全ての事はもう全部決まっている事なんだと思っている。あくまで自分の「分」の中でしか生きられない。分相応ってやつだ。それに抗うと進めなくなる。夢や目標がスムーズな流れの邪魔をする。求めた自由は遠ざかる。そんな事より今この瞬間を受け入れて大きな流れに身を任せること。自分の出来る事、人から求めてもらえる事をただいつも一生懸命やり続ければいい。そうやって自分と社会が繋がっていく。それが自由に繋がっている。だから見えない未来を怖がる必要は無い。必ず繋がっていくからだ。んで、いつか自分の生きる場所が見つかると良いなと思う。水なのか大地なのか、それとも空か。水なら海なのか川なのか湖か。もしかしたら池や沼かもしれない。憧れや理想なんかじゃなくて、本当に自分にとって心地の良いところ。沼より大海の方がイカしてるように感じるかもしれない。でもダメだ。沼の生物は海では生きられない。逆も同じ。自分は自分なのだ。理想とは違うかもしれないけど、それを受け入れられた時に自由は無限に広がる。自由とは社会と繋がれたことで、たった今この瞬間に無限に広がった選択肢。自由を与えてくれるのは自らの分を全うする社会に対する責任だ。職種の話じゃない。もちろん立場やお金の話でもない。心の在るべき場所の話だ。もっと生意気を言えば魂の拠り所だ。いつか、これの為に生きてきたんだと思える時が来る。そうやってきっと天命ってのに出会えるんだとと思う。とは言えこの親父もまだまだもがいている。せっかく乗っかれた心地良い大きな流れについ抗って見失ってしまう。まだ自分てもんが理解できていない。納得しきれていない。自分の小さな夢や目標に縛られてしまう。でも、それでいいんだと思っている。一生こんな感じかもな。とも思っている。自己採点ようやく20点の俺が今思えることだ。この境地に辿り着けた訳ではない。何となくそう思い始めたということだ。最近、中三の長女に言われた。「お父ちゃんがお父ちゃんで良かった」「あたりめえじゃん。自信あるぜ〜笑」と答えた。俺は彼らに本当に感謝している。カッコつけるためにやせ我慢ができた。お陰でどうにかこうにか格好がついている。 2000 First daughter was born at the beginning of my training. 2003 First son was born at the establishing own company. 2009 Second daughter was born when striating own...
年下の先輩
【年下の先輩】 KOMAには年功序列がない。 年齢も経験年数も性別も関係ない。 30代の男が20代の女に「早くやれよ!おせえな!」なんて怒られる光景も珍しくはない。 修行時代、俺にも年下の先輩がいた。 現在は彼も家具工房を営んでいて今でも関係が続いている。 2年先輩で1つ年下だった。 最初、実力差は雲泥で相手にもしてもらえなかった。 新人の仕事は誰でも出来る単純作業の繰り返しが主となる。 普通に考えたら面白いワケが無いが、それをどのような意識を持って臨むかで過ごす期間と得る実力は全く違ったモノになる。 楽しみとヤリがいをどのように見出すかだ。 時間は解決してくれない。 10年やっても変わらない人もいる。 簡単なのは自分とのスピード競争だ。 全ての作業にタイムを設ける。 その基準は一回前の自分だ。 必ず超える!その為に本気でヤル。 単純に身体の動きの早さや慣れでは、いづれ頭打ちする。 そこからが勝負だ。 根本的な作業のやり方を工夫する。...
年下の先輩
【年下の先輩】 KOMAには年功序列がない。 年齢も経験年数も性別も関係ない。 30代の男が20代の女に「早くやれよ!おせえな!」なんて怒られる光景も珍しくはない。 修行時代、俺にも年下の先輩がいた。 現在は彼も家具工房を営んでいて今でも関係が続いている。 2年先輩で1つ年下だった。 最初、実力差は雲泥で相手にもしてもらえなかった。 新人の仕事は誰でも出来る単純作業の繰り返しが主となる。 普通に考えたら面白いワケが無いが、それをどのような意識を持って臨むかで過ごす期間と得る実力は全く違ったモノになる。 楽しみとヤリがいをどのように見出すかだ。 時間は解決してくれない。 10年やっても変わらない人もいる。 簡単なのは自分とのスピード競争だ。 全ての作業にタイムを設ける。 その基準は一回前の自分だ。 必ず超える!その為に本気でヤル。 単純に身体の動きの早さや慣れでは、いづれ頭打ちする。 そこからが勝負だ。 根本的な作業のやり方を工夫する。...
佐藤 竜
【佐藤 竜】リュウタンとよんでいる。まだ19歳の少年だ。ついこの前まで高校生でキックボクサーだった。ここのところ急成長中で、日本一働く少年だと思う。KOMAの面接は書類選考を通過した人だけで行われる。ありがたい事に募集枠に対して多くの応募がある。時には数人同時の面接だったりもする。しかも、面接に来る人には伝えていないから、その場で鉢合わせて皆驚く。短時間で見抜こうと思うとこの方がかえって都合が良い様に思う。互いが意識し合って、引き出される部分と消されてしまう部分が人それぞれに見えるからだ。リュウタンの時も例に漏れず3人同時面接だった。一人は木工経験者。一人は美大卒でPC作業やデザインができる。両者とも書類選考時の作品ファイルなどのクオリティーも高かった。そして、リュウタンは工業高校卒業見込み。まず、彼を呼んだ理由は作品ファイルがカワイかった。格好付けて体裁を整えるだけのスキルが無いということもあるだろうが、一生懸命でウソが無い感じがした。だから俺がどうしてもコイツ呼びたい。話してみたいと言った。ただ、社内の前評判では他2人のどちらかでほとんど決まっていた。面接で見るポイントは、どのくらい本気か?根性あるか?正直か?この3点である。はっきり言ってスキルなどはコレらの次だ。ほとんどの場合、経験者と言え素人とそんなに変わらない。よほどじゃなければ通用しない。よほどのヤツなんてほとんどいない。ある程度の技術は時間が解決してくれる。だから、きちんと取り組む本気さと続けていける根性が大切だ。そして、何より大切なのが正直さだ。どんなに技術があったとしても誤摩化すヤツに仕事は任せられない。100回の仕事の中で50回失敗しても全部正直に言って50回怒られれば良い。ケツを拭くのも上司の仕事だ。どんな失敗でも分かりさえすれば対処の仕方はあるし改善もできるから次に繋げられる。だから、もう一度任せる事が出来る。100回の中で1回の失敗でも隠すヤツはダメだ。なんのフォローも出来ない。大きな失敗に繋がる可能性がある。その場合は会社のダメージもデカイ。信頼が出来ないからもう二度と仕事を任せる事は出来ない。だからクビだ。若いうちは怒られるのが仕事だ。失敗の責任が取れないんだから怒られる以外にない。ただ瞬間的に怒られるだでイイなんて、これほど楽な事はない。そんな責任すら逃げるヤツなんかにどうせ将来は無いから育てる価値も無い。その点で彼は、ただただ正直な感じがした。言い方を変えれば、育て甲斐があると思えた。だからこの面接の人選に関しては俺がワガママを言った。どうしてもコイツがイイ!と。他の2人も良かったが、俺にはダントツでリュウタンが光って見えた。あれからもう少しで一年。俺の目に狂いは無かったと思う。彼を選んで良かった。最初の一年は本人次第だ。失敗の繰り返しで自分の存在価値も見失う。こちらは何も出来ない。一定のラインを超えるまではチャンスも環境を与える事が出来ないからだ。耐えてくれよ〜と思いながらただただ見守るしか無い。よく踏ん張れていると思う。そして最近、急に伸びてきた。仕事も覚え、責任感も出てきた。かなり早い方だと思う。しかもまだ19になったばかりの少年だ。俺が19の頃は実家を追い出され、頑張る事も知らず目標も何も無くプー太郎で一人暮らしをしていた。あの頃の俺は今のリュウタンに口もきいてもらえないと思う。履物はビーチサンダルしか無かった時期もある。二百円のアルバイト情報誌が買えなくて、コンビニで電話番号を暗記して公衆電話で面接のアポとり。電気もガスも水道も止められて部屋の中でも息は白く、公園と部屋を往復して風呂に水を溜める。その水は貴重だった。身体を流し、洗濯をし、最後はトイレのタンクに。しまいには、その土地の暴走族に部屋まで乗り込まれたりもして散々だった。ため息しか出ない毎日。それに比べて目標に向かって仲間と共に一生懸命なリュウタンとのあまりの差にビックリする。当時の俺には逆立ちしても絶対に出来ない事だった。仕事に失敗して落ち込む彼を見ていて「スゲエな〜」と思う。だって頑張ってなければ落ち込む事はないもんね。10年後のリュウタンはどうなっているだろうか?間違いなくKOMAの看板の一人になってくれているだろう。そして、彼にも年上の後輩ができた。 I call him "Ryu-tan". He is a boy 19 years old. Until very recently, he was high school student and kick boxer. He is growing very rapidly and he...
佐藤 竜
【佐藤 竜】リュウタンとよんでいる。まだ19歳の少年だ。ついこの前まで高校生でキックボクサーだった。ここのところ急成長中で、日本一働く少年だと思う。KOMAの面接は書類選考を通過した人だけで行われる。ありがたい事に募集枠に対して多くの応募がある。時には数人同時の面接だったりもする。しかも、面接に来る人には伝えていないから、その場で鉢合わせて皆驚く。短時間で見抜こうと思うとこの方がかえって都合が良い様に思う。互いが意識し合って、引き出される部分と消されてしまう部分が人それぞれに見えるからだ。リュウタンの時も例に漏れず3人同時面接だった。一人は木工経験者。一人は美大卒でPC作業やデザインができる。両者とも書類選考時の作品ファイルなどのクオリティーも高かった。そして、リュウタンは工業高校卒業見込み。まず、彼を呼んだ理由は作品ファイルがカワイかった。格好付けて体裁を整えるだけのスキルが無いということもあるだろうが、一生懸命でウソが無い感じがした。だから俺がどうしてもコイツ呼びたい。話してみたいと言った。ただ、社内の前評判では他2人のどちらかでほとんど決まっていた。面接で見るポイントは、どのくらい本気か?根性あるか?正直か?この3点である。はっきり言ってスキルなどはコレらの次だ。ほとんどの場合、経験者と言え素人とそんなに変わらない。よほどじゃなければ通用しない。よほどのヤツなんてほとんどいない。ある程度の技術は時間が解決してくれる。だから、きちんと取り組む本気さと続けていける根性が大切だ。そして、何より大切なのが正直さだ。どんなに技術があったとしても誤摩化すヤツに仕事は任せられない。100回の仕事の中で50回失敗しても全部正直に言って50回怒られれば良い。ケツを拭くのも上司の仕事だ。どんな失敗でも分かりさえすれば対処の仕方はあるし改善もできるから次に繋げられる。だから、もう一度任せる事が出来る。100回の中で1回の失敗でも隠すヤツはダメだ。なんのフォローも出来ない。大きな失敗に繋がる可能性がある。その場合は会社のダメージもデカイ。信頼が出来ないからもう二度と仕事を任せる事は出来ない。だからクビだ。若いうちは怒られるのが仕事だ。失敗の責任が取れないんだから怒られる以外にない。ただ瞬間的に怒られるだでイイなんて、これほど楽な事はない。そんな責任すら逃げるヤツなんかにどうせ将来は無いから育てる価値も無い。その点で彼は、ただただ正直な感じがした。言い方を変えれば、育て甲斐があると思えた。だからこの面接の人選に関しては俺がワガママを言った。どうしてもコイツがイイ!と。他の2人も良かったが、俺にはダントツでリュウタンが光って見えた。あれからもう少しで一年。俺の目に狂いは無かったと思う。彼を選んで良かった。最初の一年は本人次第だ。失敗の繰り返しで自分の存在価値も見失う。こちらは何も出来ない。一定のラインを超えるまではチャンスも環境を与える事が出来ないからだ。耐えてくれよ〜と思いながらただただ見守るしか無い。よく踏ん張れていると思う。そして最近、急に伸びてきた。仕事も覚え、責任感も出てきた。かなり早い方だと思う。しかもまだ19になったばかりの少年だ。俺が19の頃は実家を追い出され、頑張る事も知らず目標も何も無くプー太郎で一人暮らしをしていた。あの頃の俺は今のリュウタンに口もきいてもらえないと思う。履物はビーチサンダルしか無かった時期もある。二百円のアルバイト情報誌が買えなくて、コンビニで電話番号を暗記して公衆電話で面接のアポとり。電気もガスも水道も止められて部屋の中でも息は白く、公園と部屋を往復して風呂に水を溜める。その水は貴重だった。身体を流し、洗濯をし、最後はトイレのタンクに。しまいには、その土地の暴走族に部屋まで乗り込まれたりもして散々だった。ため息しか出ない毎日。それに比べて目標に向かって仲間と共に一生懸命なリュウタンとのあまりの差にビックリする。当時の俺には逆立ちしても絶対に出来ない事だった。仕事に失敗して落ち込む彼を見ていて「スゲエな〜」と思う。だって頑張ってなければ落ち込む事はないもんね。10年後のリュウタンはどうなっているだろうか?間違いなくKOMAの看板の一人になってくれているだろう。そして、彼にも年上の後輩ができた。 I call him "Ryu-tan". He is a boy 19 years old. Until very recently, he was high school student and kick boxer. He is growing very rapidly and he...
平塚 剛史
【平塚 剛史】センセイとよんでいる。大学の建築科を出ていて建築士、木工技能士などの資格を持っているからだ。だからCAD図面など朝飯前だ。建築の現場監督や家具職人など社会人経験も豊富だ。宮崎県出身の30歳。姉妹に挟まれた長男で幼少期に角という角、牙という牙を全て削られたと本人は言うが、負けず嫌いで意地も根性もしっかりある。プライドばかりが高いヤツっていうのは箸にも棒にも引っかからないが、無いなら無いでそれに伴って意地も根性も無い人っていうのも多い。センセイの場合は下らねえプライドだけが丁度良く削られたのだと思う。2014年の12月に面接にやってきたが、俺はすっかり忘れていて、とある忘年会の予定を入れてしまっていた。急遽、忘年会が面接の場となった。40名ほど集まる賑やかな忘年会で、ミス日本橋など奇麗どころの集うテーブルにセンセイを座らせた。「あとよろしくね〜」放ったらかして俺はさっさと他のテーブルへ。数時間後「ゼッタイ採用〜」と彼女達。「OK!んじゃ採用で!」コレで決まった。いいかげんに思われるだろうが、結果的にコレが実に良い面接となった。知らない人たちとの初めての席での社会順応性。長いものには巻かれろ。郷に入っては郷に従え。社会人はまずコレであると思う。そんな事も出来ないヤツにちゃんとトンがることなんて出来ない。だってそのための素養は自らが構成した環境と人が与えてくれるからだ。カタ破りっていうのはカタがあってこそ。カタが無いのをカタ無しって言う。トンがるっていうのは、ココだけは!って一点に関してだけで良い。言い方を変えれば、その一点を持ってる人の方が少ないからそうならなくていい人がほとんど。だからその一点を見つけるまでは巻かれて従いながら順応するのが正解。何も無いのにトンがってるとハリネズミの様な状態になるが、品格に欠けてみっともない。まあ少し前の俺の事だが。。。笑話がそれたが、とにかくセンセイはあらゆる面でKOMAにとって必要な人材だ。まずは元々持っている図面作成や構造把握などのスキル。これにより俺や亀井が多くの業務から解放されて新たな挑戦に向かえる。明るく温和な性格は全体に良いムードメーカーになってくれる。彼の社会人経験は会社としてまだまだ未熟なKOMAに多くの改善をもたらしてくれる。そして、まともな社会人経験を持つ者がいないKOMAメンバーに社会人として当たりまえの事をきちんと体現してくれる。先日、自分が体調を崩した時に思った。人間いつどうなるか分からない。医者にどうしたの?ボロボロだよ?って言われた。健康、頑丈だけが取り柄に思っていたからビックリした。今日の帰りに事故に遭うかもしれないし、大きな病を煩うかもしれない。そんな事を考えて生活していてもしょうがないが、可能性としてはゼロじゃない。そして、何が起っても生活をしていかなければならない。でも、俺は不安じゃない。俺に何があっても支えてくれるだろうと思えるし、俺も支えたいと思える仲間がいてくれるからだ。仲間さえいれば大丈夫だ。何とかなる。何とかしてくれる。何よりも掛け替えのないものは仲間なのだ。俺たちは社会で生き残るために集まった一つの群れであると思う。開業から1年で50%の会社が潰れる。10年残るのは5%と言われている。熾烈な生存競争の中で生き残るために、群れを中心に互いが役割を全うし仲間を支える為に責任を果たす。コレが仲間だ。まだ一年の付き合いだが、センセイも全面的に信頼のおける掛け替えのない仲間である。彼とのストーリーはまだまだこれから創られていくのだ。そんな彼になついて「平塚さんと一緒に住みたい」なんて言ってるヤツがいる。19歳になったばかりの佐藤竜だ。 I call him "Sensei", ("Teacher" in English). He graduated from the department of architecture of an university and holds the license of the qualified architect and the qualified engineer...
平塚 剛史
【平塚 剛史】センセイとよんでいる。大学の建築科を出ていて建築士、木工技能士などの資格を持っているからだ。だからCAD図面など朝飯前だ。建築の現場監督や家具職人など社会人経験も豊富だ。宮崎県出身の30歳。姉妹に挟まれた長男で幼少期に角という角、牙という牙を全て削られたと本人は言うが、負けず嫌いで意地も根性もしっかりある。プライドばかりが高いヤツっていうのは箸にも棒にも引っかからないが、無いなら無いでそれに伴って意地も根性も無い人っていうのも多い。センセイの場合は下らねえプライドだけが丁度良く削られたのだと思う。2014年の12月に面接にやってきたが、俺はすっかり忘れていて、とある忘年会の予定を入れてしまっていた。急遽、忘年会が面接の場となった。40名ほど集まる賑やかな忘年会で、ミス日本橋など奇麗どころの集うテーブルにセンセイを座らせた。「あとよろしくね〜」放ったらかして俺はさっさと他のテーブルへ。数時間後「ゼッタイ採用〜」と彼女達。「OK!んじゃ採用で!」コレで決まった。いいかげんに思われるだろうが、結果的にコレが実に良い面接となった。知らない人たちとの初めての席での社会順応性。長いものには巻かれろ。郷に入っては郷に従え。社会人はまずコレであると思う。そんな事も出来ないヤツにちゃんとトンがることなんて出来ない。だってそのための素養は自らが構成した環境と人が与えてくれるからだ。カタ破りっていうのはカタがあってこそ。カタが無いのをカタ無しって言う。トンがるっていうのは、ココだけは!って一点に関してだけで良い。言い方を変えれば、その一点を持ってる人の方が少ないからそうならなくていい人がほとんど。だからその一点を見つけるまでは巻かれて従いながら順応するのが正解。何も無いのにトンがってるとハリネズミの様な状態になるが、品格に欠けてみっともない。まあ少し前の俺の事だが。。。笑話がそれたが、とにかくセンセイはあらゆる面でKOMAにとって必要な人材だ。まずは元々持っている図面作成や構造把握などのスキル。これにより俺や亀井が多くの業務から解放されて新たな挑戦に向かえる。明るく温和な性格は全体に良いムードメーカーになってくれる。彼の社会人経験は会社としてまだまだ未熟なKOMAに多くの改善をもたらしてくれる。そして、まともな社会人経験を持つ者がいないKOMAメンバーに社会人として当たりまえの事をきちんと体現してくれる。先日、自分が体調を崩した時に思った。人間いつどうなるか分からない。医者にどうしたの?ボロボロだよ?って言われた。健康、頑丈だけが取り柄に思っていたからビックリした。今日の帰りに事故に遭うかもしれないし、大きな病を煩うかもしれない。そんな事を考えて生活していてもしょうがないが、可能性としてはゼロじゃない。そして、何が起っても生活をしていかなければならない。でも、俺は不安じゃない。俺に何があっても支えてくれるだろうと思えるし、俺も支えたいと思える仲間がいてくれるからだ。仲間さえいれば大丈夫だ。何とかなる。何とかしてくれる。何よりも掛け替えのないものは仲間なのだ。俺たちは社会で生き残るために集まった一つの群れであると思う。開業から1年で50%の会社が潰れる。10年残るのは5%と言われている。熾烈な生存競争の中で生き残るために、群れを中心に互いが役割を全うし仲間を支える為に責任を果たす。コレが仲間だ。まだ一年の付き合いだが、センセイも全面的に信頼のおける掛け替えのない仲間である。彼とのストーリーはまだまだこれから創られていくのだ。そんな彼になついて「平塚さんと一緒に住みたい」なんて言ってるヤツがいる。19歳になったばかりの佐藤竜だ。 I call him "Sensei", ("Teacher" in English). He graduated from the department of architecture of an university and holds the license of the qualified architect and the qualified engineer...