DIARY

荻野 隆雄
【荻野 隆雄】荻坊とよんでいる。2008年。ちょうど俺が30歳の頃。25歳で始めたKOMAは(株)KOMAになった。若い衆に対して今でもかなり厳しいが当時はそれの比ではない。例えば、声が小さい時。現在は「声が小せえ〜」当時は「なに言ってっか聞こえねえんだよ!ブッ殺すぞ!」例えば、遅刻しちゃったら。現在は、昨日も遅かったしな〜でなにも言わない。当時は、ヘタしたらクビだ。そんな環境だから当然誰もついてこない。あの頃いてくれた子たちには本当に申し訳ないと思うが、今でもみんな連絡をくれて繋がれている事に感謝している。そんな時に入ってきたのが24歳の荻坊だ。当然、例に漏れず半年程の付き合いだった。「オマエはウチでやってくの無理じゃね?」みたいなニュアンスだったと思う。思い返してみると自己嫌悪に陥りそうになる。。まだ若くて血の気が多すぎた。過去には戻れないから今に活かす。などと言い訳ばかりがうかんでしまう。。その時、荻坊は「ゼッテエ諦めないっす!」と他の家具工房に移った。「でもたまに遊びに来てイイっすか?」とも言ってくれた。その宣言どおりちょくちょく顔を出してくれた。おかげで関係は繋がった。ありがたい。2年が経った2010年。「会社がヒマで今月休みなんすよ」と荻坊。「だったらその間手伝ってくれよ〜」で事件が起こる。右手中指切断の大怪我だ。「119番って何番だ!!?」なんてパニクリながら救急車を呼んだ。手術とリハビリを終え半年後、紆余曲折は割愛するが、1年後に独立を前提でKOMAに戻ってくる事になる。一緒に働くのは2度目だ。売上や自身の製産スキルなど、独立を想定したトライは厳しいものだった。荻坊にとって落ち込む結果になった。そして、家具職人の道を諦めることになる。そんな話し合いをして工場で2人、深夜までスケボーをして盛り上がった。荻坊は地元である埼玉に戻り、「やっぱり木に携わりたい」と盆栽屋に就職する。2度目も何も助けになることは出来なかった。それから徐々に厳しすぎる環境ではなくなり、やっと人材が定着してきたか?などと思っていた。2014年の7月、2年目の若い衆が突然バックレた。今までにも数人いるが、古今東西よくいる若者のよくある姿で、少なからず存在する。そういった相手には、身の丈以上の期待をしないでほどほどにが大切だ。ということを学んだ。10月、入社1年半の若い衆が辞めた。ヤル気もあって、ちょうど技術も伸びてきて、今後が凄く楽しみなヤツだったが、会社として彼の家族の信頼を得れなかった事に本当に申し訳ないと思っている。自分よりも家族を選んだ彼を尊敬している。役割、それに伴う給与、様々な基準やルールなどなどの明確化が必要だと分かった。何れにせよ若い衆が続かない。もうイヤでも反省するしかない。自分に問題がある。職人で残ったのは、俺、亀井、6年目だが半独立状態の海老沢、今は仕上げのエースとして活躍中だが当時は、まだまだの舞子の4人だけになった。困った。仕事はあるけど人がいない。この状況にただの素人はキツい。会社との相性もある。。。どうするか。。。2014年11月のある深夜、荻坊に会いに行った。群馬かどこかの駅前で、地べたに座り酒盛りをしながらスケーボーをした。「助けてくれねえか?」を言いに行った。「そこまで言われて断る理由は無いっすよ!」戻ってきてくれた。本当にありがたい。荻坊と一緒に働くのはこれで3度目になる。前の2度とも荻坊の助けになる事ができなかった。そして3度目は、俺が助けてもらう事になった。ギブアンドテイクになってねえ。荻坊は職人としての成長を見せた。特に「鉋」は急成長だった。年内に俺に追いつくなんて言ってた。そして何より、会社全体の事や若い衆の教育にも目を向けてくれた。そして今、荻坊は営業に転向してくれた。「KOMAってもったいないっすよ」「KOMAに足りないのは営業力」「もっといろんな人に知ってほしい」また助けてもらう事になった。気さくで明るい性根は人に可愛がられる。一つの結果が大きく彼を成長させるだろうと思う。最近、俺からの身の丈以上の期待と要望に向き合い応える覚悟が見えてきたように思う。そんな荻坊は俺にとって今、希望の光であり最も信頼出来る人間の一人だ。そして何より、「黙って信じて待てば良い」と思える切っ掛けを創ってくれたように思う。これは会社経営にとって大きな進歩だ。スケボー スノボー サーフィンと公私ともに仲間なのである!そしてこれからも助けてもらうのである!!笑誰よりも人との繋がりを大切にする荻坊が紹介してくれたのが、今や椅子仕上げのエースとして活躍している武内舞子だった。 I call him "Ogi-bo". 2008. When I was 30 years old. KOMA, I established the I was 25 years old, became KOMA co., ltd. I am still tough...
荻野 隆雄
【荻野 隆雄】荻坊とよんでいる。2008年。ちょうど俺が30歳の頃。25歳で始めたKOMAは(株)KOMAになった。若い衆に対して今でもかなり厳しいが当時はそれの比ではない。例えば、声が小さい時。現在は「声が小せえ〜」当時は「なに言ってっか聞こえねえんだよ!ブッ殺すぞ!」例えば、遅刻しちゃったら。現在は、昨日も遅かったしな〜でなにも言わない。当時は、ヘタしたらクビだ。そんな環境だから当然誰もついてこない。あの頃いてくれた子たちには本当に申し訳ないと思うが、今でもみんな連絡をくれて繋がれている事に感謝している。そんな時に入ってきたのが24歳の荻坊だ。当然、例に漏れず半年程の付き合いだった。「オマエはウチでやってくの無理じゃね?」みたいなニュアンスだったと思う。思い返してみると自己嫌悪に陥りそうになる。。まだ若くて血の気が多すぎた。過去には戻れないから今に活かす。などと言い訳ばかりがうかんでしまう。。その時、荻坊は「ゼッテエ諦めないっす!」と他の家具工房に移った。「でもたまに遊びに来てイイっすか?」とも言ってくれた。その宣言どおりちょくちょく顔を出してくれた。おかげで関係は繋がった。ありがたい。2年が経った2010年。「会社がヒマで今月休みなんすよ」と荻坊。「だったらその間手伝ってくれよ〜」で事件が起こる。右手中指切断の大怪我だ。「119番って何番だ!!?」なんてパニクリながら救急車を呼んだ。手術とリハビリを終え半年後、紆余曲折は割愛するが、1年後に独立を前提でKOMAに戻ってくる事になる。一緒に働くのは2度目だ。売上や自身の製産スキルなど、独立を想定したトライは厳しいものだった。荻坊にとって落ち込む結果になった。そして、家具職人の道を諦めることになる。そんな話し合いをして工場で2人、深夜までスケボーをして盛り上がった。荻坊は地元である埼玉に戻り、「やっぱり木に携わりたい」と盆栽屋に就職する。2度目も何も助けになることは出来なかった。それから徐々に厳しすぎる環境ではなくなり、やっと人材が定着してきたか?などと思っていた。2014年の7月、2年目の若い衆が突然バックレた。今までにも数人いるが、古今東西よくいる若者のよくある姿で、少なからず存在する。そういった相手には、身の丈以上の期待をしないでほどほどにが大切だ。ということを学んだ。10月、入社1年半の若い衆が辞めた。ヤル気もあって、ちょうど技術も伸びてきて、今後が凄く楽しみなヤツだったが、会社として彼の家族の信頼を得れなかった事に本当に申し訳ないと思っている。自分よりも家族を選んだ彼を尊敬している。役割、それに伴う給与、様々な基準やルールなどなどの明確化が必要だと分かった。何れにせよ若い衆が続かない。もうイヤでも反省するしかない。自分に問題がある。職人で残ったのは、俺、亀井、6年目だが半独立状態の海老沢、今は仕上げのエースとして活躍中だが当時は、まだまだの舞子の4人だけになった。困った。仕事はあるけど人がいない。この状況にただの素人はキツい。会社との相性もある。。。どうするか。。。2014年11月のある深夜、荻坊に会いに行った。群馬かどこかの駅前で、地べたに座り酒盛りをしながらスケーボーをした。「助けてくれねえか?」を言いに行った。「そこまで言われて断る理由は無いっすよ!」戻ってきてくれた。本当にありがたい。荻坊と一緒に働くのはこれで3度目になる。前の2度とも荻坊の助けになる事ができなかった。そして3度目は、俺が助けてもらう事になった。ギブアンドテイクになってねえ。荻坊は職人としての成長を見せた。特に「鉋」は急成長だった。年内に俺に追いつくなんて言ってた。そして何より、会社全体の事や若い衆の教育にも目を向けてくれた。そして今、荻坊は営業に転向してくれた。「KOMAってもったいないっすよ」「KOMAに足りないのは営業力」「もっといろんな人に知ってほしい」また助けてもらう事になった。気さくで明るい性根は人に可愛がられる。一つの結果が大きく彼を成長させるだろうと思う。最近、俺からの身の丈以上の期待と要望に向き合い応える覚悟が見えてきたように思う。そんな荻坊は俺にとって今、希望の光であり最も信頼出来る人間の一人だ。そして何より、「黙って信じて待てば良い」と思える切っ掛けを創ってくれたように思う。これは会社経営にとって大きな進歩だ。スケボー スノボー サーフィンと公私ともに仲間なのである!そしてこれからも助けてもらうのである!!笑誰よりも人との繋がりを大切にする荻坊が紹介してくれたのが、今や椅子仕上げのエースとして活躍している武内舞子だった。 I call him "Ogi-bo". 2008. When I was 30 years old. KOMA, I established the I was 25 years old, became KOMA co., ltd. I am still tough...

ウチの若い衆
そう言えば俺は「木工作家」なるものになりたくて独立したのだったことを思い出した。たった二年できれいサッパリ辞めることになるのだが、今となってはどうでも良い。早い段階で「一人じゃなんにも出来ねえ」ってことが知れて良かったと思っている。生き残っていく為には、投資した時間や金に執着しないで時にはサッパリ諦めて、トライ&エラーの回転数を出来るだけ速くすることが重要だと今は思うからだ。日、月、年といろんな回転軸が持てるとイイと思う。独立してすぐの25歳から、ありがたい事に百貨店の催事で「全国クラフトフェアー」や「椅子のオーダー相談会」「実演販売」などに呼んでもらえる機会を得た。なかなか出入りするのが難しい百貨店に独立1年目から呼んでもらえて、木工作家としての第一歩だ!なんて浮かれていたが、すぐに「そんな甘くない」を知る。今思えば、超アマちゃんだが当時はそれなりの自信があった。きっと10年後には今を振り返って同じように思うのだろうが。。売り場には北海道から九州まで全国の家具作家が集まっていた。隣のブースは集成材の板をBOX状にした組み立て家具。俺の家具はカンナやカタナを駆使した無垢材の削り出し。余裕で通用するな〜なんて思った。正直に言うと「勝ったな!」なんて思ってた。ココから先は想像どおり。俺の家具は全く売れない。隣のおじさんの家具はバンバン売れる。2週間の期間が終わって売上の差は10倍以上だと思う。イヤでも気付く。彼には数十年を継続した歴史があるのだということ。それに伴う顧客がいた。数十年も掛けて積み上げられた「売る環境」があるのだ。そして、人に使ってもらえて初めて商品としての価値があるのだ。作るだけじゃない。知ってもらい販売に繋げる努力の継続。当たり前だが、そうして持続可能なものづくりが出来るのだと知る。俺には作るしかない。だから人に使ってもらえない。商品としての価値が無いのと等しいという事を知る。そんな当たり前も知らずに調子に乗って独立してしまったのだ。俺と、このおじさん。。勝つとか負けるとかじゃない。数十年の積み上げの差。次元が違う。恥ずかしくなった。そんな事を1年繰り返した。結果はどれも散々。惨敗だった。ある催事で、修業時代から目をかけてくれている営業マンの三浦さんが販売の手伝いに来てくれた。「良い家具つくってんだから〜自信もてよ〜」でもやはり惨敗だった。なんの継続も無い人間に社会で結果なんて出るはずが無い。三浦さんにも申し訳ないと思った。その夜、二人でラーメンを食べた。なんだか急に泣けてきた。「オイオイ!ど〜したんだよ〜情けねえな〜男だろ〜」江戸弁で言いながら三浦さんも泣き始めた。「悔しいな〜」二人で言いながら嗚咽した。26歳と70歳が嗚咽しながらラーメンを食ってる様は、周りから見れば異様な光景だっただろう。こちらを伺っていた大学生らしき若者数人に「見せモンじゃねんだよコラァ!!」26歳と70歳で当たり散らした。とにかく悔しかった。そして、木工作家はきれいサッパリやめることにした。人よりちょっと作れる位じゃどうにもなんねえ。このまま続けたら、何となくメシは食えるようになるだろう。でもそうじゃない。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。目標は変えない。なぜなら、先輩達から引き継いだバトンを最高のカタチで後輩達に繋ぎたいからだ。俺一人では、それを叶えるための能力は無いってことを思い知らされた。だったら、チームとして目指そう!に切り替えた。小さくても良い。役割分担ができる組織を創ろう。んで、俺は人よりちょっと作れるじゃなくて圧倒的に作れるってところまで、ものづくりを突き詰めようと思った。まず一年前に喧嘩別れした亀井に声を掛ける。断られるも半年かけて口説く。環境整備のため、出来る仕事は何でもやろう。1年で1000万貯める。工場を引っ越そう。設備を入れよう。若い衆を雇おう。10ヶ月で叶えた。人材育成が始まる。イイ子達に恵まれているにも関わらず定着しない。全て俺の問題だと知るのに10年かかった。今は、本当にスゲー奴らに恵まれたと思う。神様だか仏様だかに感謝する。そんで、やっぱり。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。引き継いだバトンを最高のカタチで繋ぎたいんだ。チームとして叶えるんだ。なんつってまた俺のアホみたいな話で前置きが長くなっちゃった。。。「ウチの若い衆」次回から本番!世界一の若い衆たちだ。 I have remembered I had started my own business to become a creator of woodworks. I completely gave it up just after 2 years later, which I do...
ウチの若い衆
そう言えば俺は「木工作家」なるものになりたくて独立したのだったことを思い出した。たった二年できれいサッパリ辞めることになるのだが、今となってはどうでも良い。早い段階で「一人じゃなんにも出来ねえ」ってことが知れて良かったと思っている。生き残っていく為には、投資した時間や金に執着しないで時にはサッパリ諦めて、トライ&エラーの回転数を出来るだけ速くすることが重要だと今は思うからだ。日、月、年といろんな回転軸が持てるとイイと思う。独立してすぐの25歳から、ありがたい事に百貨店の催事で「全国クラフトフェアー」や「椅子のオーダー相談会」「実演販売」などに呼んでもらえる機会を得た。なかなか出入りするのが難しい百貨店に独立1年目から呼んでもらえて、木工作家としての第一歩だ!なんて浮かれていたが、すぐに「そんな甘くない」を知る。今思えば、超アマちゃんだが当時はそれなりの自信があった。きっと10年後には今を振り返って同じように思うのだろうが。。売り場には北海道から九州まで全国の家具作家が集まっていた。隣のブースは集成材の板をBOX状にした組み立て家具。俺の家具はカンナやカタナを駆使した無垢材の削り出し。余裕で通用するな〜なんて思った。正直に言うと「勝ったな!」なんて思ってた。ココから先は想像どおり。俺の家具は全く売れない。隣のおじさんの家具はバンバン売れる。2週間の期間が終わって売上の差は10倍以上だと思う。イヤでも気付く。彼には数十年を継続した歴史があるのだということ。それに伴う顧客がいた。数十年も掛けて積み上げられた「売る環境」があるのだ。そして、人に使ってもらえて初めて商品としての価値があるのだ。作るだけじゃない。知ってもらい販売に繋げる努力の継続。当たり前だが、そうして持続可能なものづくりが出来るのだと知る。俺には作るしかない。だから人に使ってもらえない。商品としての価値が無いのと等しいという事を知る。そんな当たり前も知らずに調子に乗って独立してしまったのだ。俺と、このおじさん。。勝つとか負けるとかじゃない。数十年の積み上げの差。次元が違う。恥ずかしくなった。そんな事を1年繰り返した。結果はどれも散々。惨敗だった。ある催事で、修業時代から目をかけてくれている営業マンの三浦さんが販売の手伝いに来てくれた。「良い家具つくってんだから〜自信もてよ〜」でもやはり惨敗だった。なんの継続も無い人間に社会で結果なんて出るはずが無い。三浦さんにも申し訳ないと思った。その夜、二人でラーメンを食べた。なんだか急に泣けてきた。「オイオイ!ど〜したんだよ〜情けねえな〜男だろ〜」江戸弁で言いながら三浦さんも泣き始めた。「悔しいな〜」二人で言いながら嗚咽した。26歳と70歳が嗚咽しながらラーメンを食ってる様は、周りから見れば異様な光景だっただろう。こちらを伺っていた大学生らしき若者数人に「見せモンじゃねんだよコラァ!!」26歳と70歳で当たり散らした。とにかく悔しかった。そして、木工作家はきれいサッパリやめることにした。人よりちょっと作れる位じゃどうにもなんねえ。このまま続けたら、何となくメシは食えるようになるだろう。でもそうじゃない。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。目標は変えない。なぜなら、先輩達から引き継いだバトンを最高のカタチで後輩達に繋ぎたいからだ。俺一人では、それを叶えるための能力は無いってことを思い知らされた。だったら、チームとして目指そう!に切り替えた。小さくても良い。役割分担ができる組織を創ろう。んで、俺は人よりちょっと作れるじゃなくて圧倒的に作れるってところまで、ものづくりを突き詰めようと思った。まず一年前に喧嘩別れした亀井に声を掛ける。断られるも半年かけて口説く。環境整備のため、出来る仕事は何でもやろう。1年で1000万貯める。工場を引っ越そう。設備を入れよう。若い衆を雇おう。10ヶ月で叶えた。人材育成が始まる。イイ子達に恵まれているにも関わらず定着しない。全て俺の問題だと知るのに10年かかった。今は、本当にスゲー奴らに恵まれたと思う。神様だか仏様だかに感謝する。そんで、やっぱり。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。引き継いだバトンを最高のカタチで繋ぎたいんだ。チームとして叶えるんだ。なんつってまた俺のアホみたいな話で前置きが長くなっちゃった。。。「ウチの若い衆」次回から本番!世界一の若い衆たちだ。 I have remembered I had started my own business to become a creator of woodworks. I completely gave it up just after 2 years later, which I do...

嬉しいこと
結果か過程か?やっぱり結果が全てだと思う。結果が出ないのは過程が悪いから。結果が出せたのは過程が良いから。それ以外に無いと思う。結果が全てだけど、出た結果に対して満足もしなけりゃ失望もしない。ただ反省と改善をするだけ。んで、次に繋げる。どんなに上手くいっても100点は絶対にない。運やタイミング。そういったものをひっくるめて一つの過程だ。その過程の中に必ず反省点がある。そう言った意味で過程が大切なのだ。満足すると反省点を探そうとしなくなる。それ以上の成長は望まないってことだ。だから、どんなに褒めてもらっても絶対に満足しない。1%もしない。成長を求めるなら目標は高ければ高いほどイイ。すると当然、自己採点は低くなる。満足なんてしてられない。今の俺は自分の目標に対して15点くらい。だからヤルしかねえ。成長の一番の敵は満足だと思っている。家具を作っていても必ず探す。どこまで細かく突き詰めていけるかだ。あの時のカンナの一削り。加工の順番。かかった時間。全部思い起こして反省する。次はゼッテエ繰り返さねえと誓う。それでも毎回新たな反省点は見つかる。だから少しづつでも確実に進歩する。別に苦しくもなければ楽しくもない。時折ほんの少しだけ「嬉しい」を感じれるだけだ。しかし、この「嬉しい」っていうのは特別だ。中毒性がある。ほんの少しでもまた味わいたくなる。ジャンキーになってしまう。どんなに時間を費やしてでも欲しくなる。命と交換でもイイなんて思えてしまう。最近の自社製品の中でのお気に入りは上の写真[sim chair]だ。無駄な部品も加工も無くシンプルである。だから量産体制も採れて価格的にも熟れている。それでも背もたれや座面などの身体が直接触れる部分は職人の手仕事で複雑な3次曲面を創りだしている。熟練の技と生産性を上手く合わせられていると思う。実際に手を動かして造れる人間にしかデザイン出来ない椅子であると思う。が、完璧ではないはずだ。そこを探す。改善を繰り返して、もっと良い椅子が創りたい。もし創れたら、喜んでもらえるからだ。そして俺も嬉しいからだ。だけど、最低でも一年は掛かる。もしかしたら十年かかるかもしれない。だから思う。明日それらが解決して[sim chair]を超える製品が創れるなら、本来それにかかる俺の命の時間と交換してもイイ。だって俺はサイコーな家具を作る為に生きているからだ。俺は38歳。一つの家具を創るのに38年掛けて創ったと思っている。普通の職人の10倍突き詰めた15年の職人生活が創っていると思っている。沢山の駄作から一つの秀作が生まれる。だから「嬉しい」が得られる。でも一瞬でいい。「乾杯!やったね!」で終わりで良い。歓びに浸るのは何の意味も無い。次の嬉しいが欲しい。そんな「嬉しい」はプロであるからこそ得られる感覚だと思う。命を張ってるから得られる感覚だ。仕事って言うのは手段じゃない。金を得るためじゃない。子供を育てる為じゃない。家族を養う為じゃない。んなコトはやって当たり前だ。魂を燃やせるステージのことを仕事って言うんだと思っている。スケボー、スノボー、サーフィン、バイクetcいろんな趣味を持っているが、どれもプロだけが得られる本当の喜びを味わう事は出来ない。趣味にはプレッシャーや責任が無い。突き詰める苦労を知らない。そして、その結果得ることが出来た技術が無い。だから、本当の喜びには至らない。誰も滑っていないパウダースノーの頂きに立った時、声が出ちゃうくらいのヤバイ興奮を得られるが家具を創る時はもっとある。そして嬉しいがある。それは、俺が家具づくりのプロだからだ。そんな感覚をウチの若い衆達と共有出来たらなあ。と思う今日この頃である。 Results or Processes ? Indeed, result would be everything. Failure to achieve results would be attributed to poor processes. Achieving results would be attributed to...
嬉しいこと
結果か過程か?やっぱり結果が全てだと思う。結果が出ないのは過程が悪いから。結果が出せたのは過程が良いから。それ以外に無いと思う。結果が全てだけど、出た結果に対して満足もしなけりゃ失望もしない。ただ反省と改善をするだけ。んで、次に繋げる。どんなに上手くいっても100点は絶対にない。運やタイミング。そういったものをひっくるめて一つの過程だ。その過程の中に必ず反省点がある。そう言った意味で過程が大切なのだ。満足すると反省点を探そうとしなくなる。それ以上の成長は望まないってことだ。だから、どんなに褒めてもらっても絶対に満足しない。1%もしない。成長を求めるなら目標は高ければ高いほどイイ。すると当然、自己採点は低くなる。満足なんてしてられない。今の俺は自分の目標に対して15点くらい。だからヤルしかねえ。成長の一番の敵は満足だと思っている。家具を作っていても必ず探す。どこまで細かく突き詰めていけるかだ。あの時のカンナの一削り。加工の順番。かかった時間。全部思い起こして反省する。次はゼッテエ繰り返さねえと誓う。それでも毎回新たな反省点は見つかる。だから少しづつでも確実に進歩する。別に苦しくもなければ楽しくもない。時折ほんの少しだけ「嬉しい」を感じれるだけだ。しかし、この「嬉しい」っていうのは特別だ。中毒性がある。ほんの少しでもまた味わいたくなる。ジャンキーになってしまう。どんなに時間を費やしてでも欲しくなる。命と交換でもイイなんて思えてしまう。最近の自社製品の中でのお気に入りは上の写真[sim chair]だ。無駄な部品も加工も無くシンプルである。だから量産体制も採れて価格的にも熟れている。それでも背もたれや座面などの身体が直接触れる部分は職人の手仕事で複雑な3次曲面を創りだしている。熟練の技と生産性を上手く合わせられていると思う。実際に手を動かして造れる人間にしかデザイン出来ない椅子であると思う。が、完璧ではないはずだ。そこを探す。改善を繰り返して、もっと良い椅子が創りたい。もし創れたら、喜んでもらえるからだ。そして俺も嬉しいからだ。だけど、最低でも一年は掛かる。もしかしたら十年かかるかもしれない。だから思う。明日それらが解決して[sim chair]を超える製品が創れるなら、本来それにかかる俺の命の時間と交換してもイイ。だって俺はサイコーな家具を作る為に生きているからだ。俺は38歳。一つの家具を創るのに38年掛けて創ったと思っている。普通の職人の10倍突き詰めた15年の職人生活が創っていると思っている。沢山の駄作から一つの秀作が生まれる。だから「嬉しい」が得られる。でも一瞬でいい。「乾杯!やったね!」で終わりで良い。歓びに浸るのは何の意味も無い。次の嬉しいが欲しい。そんな「嬉しい」はプロであるからこそ得られる感覚だと思う。命を張ってるから得られる感覚だ。仕事って言うのは手段じゃない。金を得るためじゃない。子供を育てる為じゃない。家族を養う為じゃない。んなコトはやって当たり前だ。魂を燃やせるステージのことを仕事って言うんだと思っている。スケボー、スノボー、サーフィン、バイクetcいろんな趣味を持っているが、どれもプロだけが得られる本当の喜びを味わう事は出来ない。趣味にはプレッシャーや責任が無い。突き詰める苦労を知らない。そして、その結果得ることが出来た技術が無い。だから、本当の喜びには至らない。誰も滑っていないパウダースノーの頂きに立った時、声が出ちゃうくらいのヤバイ興奮を得られるが家具を創る時はもっとある。そして嬉しいがある。それは、俺が家具づくりのプロだからだ。そんな感覚をウチの若い衆達と共有出来たらなあ。と思う今日この頃である。 Results or Processes ? Indeed, result would be everything. Failure to achieve results would be attributed to poor processes. Achieving results would be attributed to...

感謝する人達3
KOMAの由来は亀井のK及川のO松岡のMA立ち上げのメンバーだ。最初は彫金、強化プラスチック、木工の3素材の使い手で工場をシェアするつもりだったが、そんな簡単じゃない。世の中は厳しいってことを知っちゃった25歳。一年後、亀井との救急車出動の大喧嘩の末解散。俺はそのままKOMAをつづけるが、一年後には俺もどん底。家族がいるのに家に金も入れられない。工場に行くガソリン代もない。もう、おしまいかなあ。。そんな時、訪ねてきたのが信用金庫の支店長さん。多摩信用金庫の金井支店長だ。当時39歳の歴代最年少での支店長だ。ハンサムだ。イケメンじゃなくてハンサム。なんで支店長さんが?「なんか面白いヤツがいるって聞いてきたんだけど〜話そうか!」と金井さん。工場で塗料の一斗缶に座り2人で話した。今までの経緯や目指していたことを黙って一時間聞いてくれた。「まっちゃん。面白いね〜応援するよ!」その場で電話を取り出して何やら俺のことを話してる。「今、本部に電話しといたから〜マッチング出来そうな会社を紹介するよ〜」と携帯をたたみながら金井さん。「え?マジっすか?」「建築、設計、リフォーム、インテリアショプ、、んな感じでいいよね?」「え??マジっすか??」「ウチみたいな所はさ〜人と人を繋げるぐらいしかヤルこと無いのよ〜笑」本当に沢山紹介してくれた。多くの取引先ができた。「昼飯行こう!どうせロクなもん食ってねえんだろ?」時々お昼になると車で迎えにきてくれた。「おいしいもん食べ行こう!」よく酒もおごってもらった。「まっちゃん!車乗れよ!一緒に営業行こう!」「??」「まっちゃん一人じゃチンピラだけど、支店長が一緒だったら説得力あるだろ?」そう言って一緒に営業してくれたこともあった。おかげさまでドッと仕事が入ってきた。でも、金がなくて材料が買えない。家賃も滞納してる。墜落寸前の2年目の個人事業に300万円貸してくれた。ここからようやく浮上が始まるのである。金井さんと多摩信用金庫に感謝してもしきれない。だから未だにKOMAは多摩信用金庫としか取引しない。他の銀行が営業に来たら上のエピソードを話して「ここまでしてもらっといて浮気するヤツと取引する?」って聞く。すると苦笑いしながら帰っていく。「まっちゃんはさ!世界のトップ獲れよ!」酔うといつも励ましてくれた。「金井さんは?」って聞くと。「俺はさ、小さな地域密着が向いてるんだよ〜その人に合ったスケール感を全うすれば上も下も無いんだよ。」なんとも清々しい男なのである。ある日「部下の教育は?」って聞いた。「何度も何度も同じ事を言う」と答えた。「何度言っても分からない場合は?」「それでも同じ事を何度も何度も言う」と答えた。俺にはまだまだそんなこと出来ない。清々しく生きるっつうことは特別なことをするワケではない。誰もやらないこと、自分がやったほうが良いこと、自分にしか出来ないこと。コレらを感じて見つけて、ただただやり続けるってことだ。んで、自分が少しでも周りの人の助けになれば良いのだ。こんなことを身を以て教えてくれた人だ。あれから10年。今でもこの地域にファンが多い金井さんは今年、最年少で役員になった。今度お祝いをしたい。こういう人の結果は嬉しい。なんだか自分のことよりずっと嬉しい。 KOMA originated from K of Kamei O of Oikawa MA of Matsuoka They are founders. We aimed to share a factory by craftsman of metal-carving, reinforced plastics, ...
感謝する人達3
KOMAの由来は亀井のK及川のO松岡のMA立ち上げのメンバーだ。最初は彫金、強化プラスチック、木工の3素材の使い手で工場をシェアするつもりだったが、そんな簡単じゃない。世の中は厳しいってことを知っちゃった25歳。一年後、亀井との救急車出動の大喧嘩の末解散。俺はそのままKOMAをつづけるが、一年後には俺もどん底。家族がいるのに家に金も入れられない。工場に行くガソリン代もない。もう、おしまいかなあ。。そんな時、訪ねてきたのが信用金庫の支店長さん。多摩信用金庫の金井支店長だ。当時39歳の歴代最年少での支店長だ。ハンサムだ。イケメンじゃなくてハンサム。なんで支店長さんが?「なんか面白いヤツがいるって聞いてきたんだけど〜話そうか!」と金井さん。工場で塗料の一斗缶に座り2人で話した。今までの経緯や目指していたことを黙って一時間聞いてくれた。「まっちゃん。面白いね〜応援するよ!」その場で電話を取り出して何やら俺のことを話してる。「今、本部に電話しといたから〜マッチング出来そうな会社を紹介するよ〜」と携帯をたたみながら金井さん。「え?マジっすか?」「建築、設計、リフォーム、インテリアショプ、、んな感じでいいよね?」「え??マジっすか??」「ウチみたいな所はさ〜人と人を繋げるぐらいしかヤルこと無いのよ〜笑」本当に沢山紹介してくれた。多くの取引先ができた。「昼飯行こう!どうせロクなもん食ってねえんだろ?」時々お昼になると車で迎えにきてくれた。「おいしいもん食べ行こう!」よく酒もおごってもらった。「まっちゃん!車乗れよ!一緒に営業行こう!」「??」「まっちゃん一人じゃチンピラだけど、支店長が一緒だったら説得力あるだろ?」そう言って一緒に営業してくれたこともあった。おかげさまでドッと仕事が入ってきた。でも、金がなくて材料が買えない。家賃も滞納してる。墜落寸前の2年目の個人事業に300万円貸してくれた。ここからようやく浮上が始まるのである。金井さんと多摩信用金庫に感謝してもしきれない。だから未だにKOMAは多摩信用金庫としか取引しない。他の銀行が営業に来たら上のエピソードを話して「ここまでしてもらっといて浮気するヤツと取引する?」って聞く。すると苦笑いしながら帰っていく。「まっちゃんはさ!世界のトップ獲れよ!」酔うといつも励ましてくれた。「金井さんは?」って聞くと。「俺はさ、小さな地域密着が向いてるんだよ〜その人に合ったスケール感を全うすれば上も下も無いんだよ。」なんとも清々しい男なのである。ある日「部下の教育は?」って聞いた。「何度も何度も同じ事を言う」と答えた。「何度言っても分からない場合は?」「それでも同じ事を何度も何度も言う」と答えた。俺にはまだまだそんなこと出来ない。清々しく生きるっつうことは特別なことをするワケではない。誰もやらないこと、自分がやったほうが良いこと、自分にしか出来ないこと。コレらを感じて見つけて、ただただやり続けるってことだ。んで、自分が少しでも周りの人の助けになれば良いのだ。こんなことを身を以て教えてくれた人だ。あれから10年。今でもこの地域にファンが多い金井さんは今年、最年少で役員になった。今度お祝いをしたい。こういう人の結果は嬉しい。なんだか自分のことよりずっと嬉しい。 KOMA originated from K of Kamei O of Oikawa MA of Matsuoka They are founders. We aimed to share a factory by craftsman of metal-carving, reinforced plastics, ...

100年杉の椅子
シンプルってのは何か?と考える。「無駄が無い」のと「何も無い」のは違う。無駄が無いシンプルって言うのは難しい。突き詰めれば究極までいくだろうし、ずっとそれを求めていくものの一つだとも思う。日本特有とも言える美意識は「削ぎ落としの美」であるから古くからDNAに刻まれている様な気もするが、やはり難しい。消費書を考えた上での生産のしやすさはコスト面、安定供給において必要な事だが、作り手の都合だけになってしまっているものをシンプルと呼ぶことも多く見られる。それが何も無いシンプルってやつだ。商品において無駄の無いシンプルと何も無いシンプルの違いは思考のスタートと情熱の矛先が消費者か作り手である自分かの違いでもあると思う。だからいつも使う人の事を考えて本当のシンプルっていうのを追いかけている。椅子に求められる快適性、機能性とは、長時間の座りでの快適性、永年の耐久性、とり回しやすい軽さ。それらを最大限に叶えた上で1㎜も1gも無駄を無くす事を目指す。最低限の部材と最小限の部品数、全て意味のある形状と構造で構成する。そして、生産性の良い構造と加工方法、商品に合わせた量産ロット数でコストをなるべく落とす。いつもこんな事を求めながら創っているがなかなか出来ない。今回は、杉を使ってみた。杉は柔らかく家具材としては超不向きだが、軽く暖かい。特有の香りや鎮静などの効能もある。そして、日本の固有種でもある。しかし、杉の柔らかさは椅子づくりにおいて本当にネックだ。専用の構造が必要になる。削り出し仕上げの鉋や刀も難しい。紙に例えるとカッターで切る際の画用紙とティッシュペーパーみたいな感じ。部材を半パイプ形状やR形状、リブ形状などにする事で肉厚を抑えながら強度を保つよう工夫した。それらは、鉋や刀などを駆使した削り出し仕上げの技術でクリアした。重量4kgちょっと。ウォールナットの場合と比べ約半分。このサイズのパーソナルチェアとしてはかなり軽いと思う。強度も座り心地も言う事無し。でも、まだまだ。まだまだ上がある。なんとなく足りないものは分かるが、技術、経験ともに足りないからまだ創れない。今回の杉利用にはもう一つ想いがある。世の中、間伐材利用なんて言ってるが、はっきり言ってバカバカしい。間伐材は主伐材を育てる為に間引かれたただの廃材も多い。それらを使って製造、販売する側の都合のいい売り文句であることも多い。100年もの歳月を何世代にもわたって人が大切に育て続けた「主伐材」にこそ価値がある。なので、ワレや節が少なく赤身の多い主伐材だからこそ作る事ができる。こんなもん白太(木の皮の部分)しかない間伐材じゃ強度が無くって逆立ちしたってつくれないものが創りたかった。本質というものを探しているのだがこれも難しい。本質とは不変ではないからだ。経験を積むことで思考は深まる。それに伴い新たな本質に気づく。だから信じていたことが全く形を変えてしまうこともある。それでもやはり、前に進んでいれば少しづつでも本質に近づいていくのだと思うので心配はしていない。今のベストが明日にはゴミになっている可能性もあるということが分かっていればイイのだと思う。それが柔軟性であり自らの成長の要素であると思う。日々生まれ変わるつもりで変化を望んでいたいとも思う。それは、ものづくりや会社経営においては最も大切なことである。とは言え、人に喜んでもらえるイイものを創りたい。不義理を働かず人を大切にしたいと願う気持ちは変わらない。そう思わせてくれるのもやはり人である。俺の家具づくりも本質に近づけてくれるのは周りにいてくれる人である。だから、己の周りにいてくれる人が己の価値そのものだと思う。 What are simple ? They are completely different between "No parts are wasted." and "With nothing.". Simple avoiding any inefficient parts is very difficult. It would result in...
100年杉の椅子
シンプルってのは何か?と考える。「無駄が無い」のと「何も無い」のは違う。無駄が無いシンプルって言うのは難しい。突き詰めれば究極までいくだろうし、ずっとそれを求めていくものの一つだとも思う。日本特有とも言える美意識は「削ぎ落としの美」であるから古くからDNAに刻まれている様な気もするが、やはり難しい。消費書を考えた上での生産のしやすさはコスト面、安定供給において必要な事だが、作り手の都合だけになってしまっているものをシンプルと呼ぶことも多く見られる。それが何も無いシンプルってやつだ。商品において無駄の無いシンプルと何も無いシンプルの違いは思考のスタートと情熱の矛先が消費者か作り手である自分かの違いでもあると思う。だからいつも使う人の事を考えて本当のシンプルっていうのを追いかけている。椅子に求められる快適性、機能性とは、長時間の座りでの快適性、永年の耐久性、とり回しやすい軽さ。それらを最大限に叶えた上で1㎜も1gも無駄を無くす事を目指す。最低限の部材と最小限の部品数、全て意味のある形状と構造で構成する。そして、生産性の良い構造と加工方法、商品に合わせた量産ロット数でコストをなるべく落とす。いつもこんな事を求めながら創っているがなかなか出来ない。今回は、杉を使ってみた。杉は柔らかく家具材としては超不向きだが、軽く暖かい。特有の香りや鎮静などの効能もある。そして、日本の固有種でもある。しかし、杉の柔らかさは椅子づくりにおいて本当にネックだ。専用の構造が必要になる。削り出し仕上げの鉋や刀も難しい。紙に例えるとカッターで切る際の画用紙とティッシュペーパーみたいな感じ。部材を半パイプ形状やR形状、リブ形状などにする事で肉厚を抑えながら強度を保つよう工夫した。それらは、鉋や刀などを駆使した削り出し仕上げの技術でクリアした。重量4kgちょっと。ウォールナットの場合と比べ約半分。このサイズのパーソナルチェアとしてはかなり軽いと思う。強度も座り心地も言う事無し。でも、まだまだ。まだまだ上がある。なんとなく足りないものは分かるが、技術、経験ともに足りないからまだ創れない。今回の杉利用にはもう一つ想いがある。世の中、間伐材利用なんて言ってるが、はっきり言ってバカバカしい。間伐材は主伐材を育てる為に間引かれたただの廃材も多い。それらを使って製造、販売する側の都合のいい売り文句であることも多い。100年もの歳月を何世代にもわたって人が大切に育て続けた「主伐材」にこそ価値がある。なので、ワレや節が少なく赤身の多い主伐材だからこそ作る事ができる。こんなもん白太(木の皮の部分)しかない間伐材じゃ強度が無くって逆立ちしたってつくれないものが創りたかった。本質というものを探しているのだがこれも難しい。本質とは不変ではないからだ。経験を積むことで思考は深まる。それに伴い新たな本質に気づく。だから信じていたことが全く形を変えてしまうこともある。それでもやはり、前に進んでいれば少しづつでも本質に近づいていくのだと思うので心配はしていない。今のベストが明日にはゴミになっている可能性もあるということが分かっていればイイのだと思う。それが柔軟性であり自らの成長の要素であると思う。日々生まれ変わるつもりで変化を望んでいたいとも思う。それは、ものづくりや会社経営においては最も大切なことである。とは言え、人に喜んでもらえるイイものを創りたい。不義理を働かず人を大切にしたいと願う気持ちは変わらない。そう思わせてくれるのもやはり人である。俺の家具づくりも本質に近づけてくれるのは周りにいてくれる人である。だから、己の周りにいてくれる人が己の価値そのものだと思う。 What are simple ? They are completely different between "No parts are wasted." and "With nothing.". Simple avoiding any inefficient parts is very difficult. It would result in...

感謝する人たち2
2人目は修業時代の「坂本伊久太」大親方だ。当時70歳。リヤカーで日本橋を渡って三越に納品なんて時代から、総勢30数名の日田工芸を50年続けた強者だ。当時の俺は22歳。通わせてもらったインテリア・建築の学校を無事に卒業することになった。なぜか自信満々。根拠は無い。進路に迷う。どーせ頑張るんだったら世界一まで成り上がりたい。デザイン、建築、インテリアどれも魅力的だがアホな俺にはどうやって成り上がるのかわからない。なぜなら、クライアント無しでものづくりする事ができない。でも家具だったら工房さえあれば、商売になるかどうかは別として好きな物をつくって発信する事が容易だ。子供の頃から手先の器用さには自信があったし、単純に現物をまず自分で好き勝手に創れた方が手っ取り早いと考えた。そうして、修業期間は3年と勝手に決めて家具職人の門を叩いたのである。面接の時「3年で独立します。」と言った。そこにいるみんなの目が点になって一瞬後、笑いになった。そして「お前はバカか?修行は最低10年だ!」「同じハカリに乗せないで下さい」と答えた。また、目が点になって笑いになった。「じゃあ便所掃除からやってもらおうか?」で修行スタート。頭を剃って気合い十分。でも空回り。俺。。なんにもできねえ。。。あまりも不出来だった。自分でビックリした。自信は一瞬で砂より細かくなった。三ヶ月後に怪我をした。「失敗も多い。怪我までする。もうクビ」と言われた。「何でもします。もう少しだけ面倒見て下さい」で首の皮一枚つながった。職人はスポーツ選手に近い世界だ。早い遅い。上手い下手。が一目瞭然。怪我の多い者はそもそも使えない。当然誰も心配なんかしない。ポジションは出来る者が勝ち取る。先輩は若手に技術指導などしない。みんなライバルだ。プロなんだから出来て当たり前。褒められる事なんて無い。想像よりもずっと厳しかった。なにより自分が恥ずかしかった。でも、目標は変えない。絶対3年だ。その12月に俺は父親になった。逃げられねえ。おかげで腹が括れた。こんだけダメだと清々しくもあった。日本で一番家具づくりに時間を使おうと思った。誰よりも早く行って、始業前に鉋や鑿など道具の練習。誰よりも遅く残って、家具づくりの練習を兼ねた作品づくりを毎日やろうと決めた。メシ食ってるときも電車の中でも。出来れば寝てるときも。いつでもその事で頭を一杯にしよう。んで毎日20時間と決めた。生まれて初めてマジでやろうと決めた。でも、変わらず失敗ばかり。毎日怒られる。「ヘタクソ。帰れ。もう来んな。」の3段活用は日々の事だった。一年経っても変わらなかった。さらに半年が経った夜。22:00を過ぎた頃、いつもの居残り自主練習。電気代の節約ということで広い工場の中、電気は自分の作業スペースだけ。半径5メートル先から闇が広がる。正直ちょっと怖いが、それどころじゃない。集中して作業に打ち込む。闇と光の境界線に足が見えた。ドキッ!として固まる。パジャマ姿の大親方だった。「ま〜だやってんのか〜?!」「・・・・すんません。」「1年半毎日やってるな〜!いや〜それにしてもオマエ根性あるな〜!一年もたねえと思ってたのに〜」修行開始からはじめて人にほめられた。いや。一生懸命打ち込んだ事そのものがはじめてだったから、本当の意味で褒められたのは人生で初かもしれない。うれしかった。「あと半年がんばれ。オマエに環境をやる。」なんて言って帰って行った。その後、夜な夜な作った作品が朝日新聞主催のクラフト展で入選。新宿伊勢丹や日本橋三越で作品発表となった。そして半年。修行開始から2年が経っていた。朝の朝礼で大親方からの発表。「50年やってきて初めての試みだが、開発部をつくる。」・・・・「デザインから製作まで松岡1人に任せる。」っえ?何だ??「ただし条件は最低3日に2脚のペースで新作椅子をつくること。出来なきゃすぐに降格。」はい??マジでなに言ってんだ?よく分からないまま怒濤の日々が始まった。帰宅後デザイン案を6つ描く。朝、大親方にプレゼン。2つ選んで、よーいドンッ!!2〜3日で仕上げる為には完璧な段取りと10時間の集中力。失敗は許されない。朝と夜の自主練習は決めた事なのでやめない。そうするとスゴい日々になる。6:00起床。電車の中で今夜のためのスケッチしながら出勤。駅から会社までの自転車20分はその日の段取りを頭の中で反復イメトレ。7:30出社したら道具の手入れとその日の仕事の準備。8:30仕事開始。なんせ新作を3日で2脚。尋常じゃない。18:30作業終了。ここから自主練習タイム。22:00帰社。自転車に乗りながら翌日の段取りを頭に叩き込む。電車の中で今夜のためのスケッチ。23:30帰宅。デザイン案を描く。2:00寝る。の毎日。とんでもなく幸せな毎日だった。今振り返っても家具職人として今までで一番恵まれた環境だったと思う。自分でも実感できる成長速度は、日々生まれ変わっているような感覚だった。営業さんも積極的に売ってきてくれて、結果も出た。こんなチャンスをくれた大親方の期待に応える事ができて嬉しくもあり、ホッとした。半年が経った。いつのまにかそのペースに馴れてきた。職人としてこれ以上に恵まれた環境はあるのか?自問する。雇われの職人としてはこの上ないな。の結論に至る。もっともっと家具づくりがしたかった。じゃあ独立するしかねえな。その日に辞表を書いた。大親方は当然だが驚いた。「この環境に不満があるのか?!」「もっと挑戦したいんす。」「給料増やしてやる。」「金はいらねえっす。」「飽きちゃったのか?」「飽きちゃいました。」「最初っから3年って言ってたもんな。。」「すんません。。」とんでもなく身勝手ではあるが、数ヶ月後の退社が決まった。大親方はすごく悲しい顔をしていた。俺は「もっともっと」しか考えてなかった。直後、大親方は実務を退き会長職になった。三年後、日田工芸は廃業することになる。あれから13年。俺も経営者として人材育成をする立場。だから余計にわかる。ただ悲しかったろうなと思う。今、家具職人として居られるのはチャンスをくれた大親方のおかげだ。あの怒濤の日々は、数十年の経験に匹敵するほど濃密な時間だった。上の写真は2011年に大親方にとって思い出深い場所でもある新宿伊勢丹リビング売り場のメインステージで初めてkoma展をやらせてもらった時。俺の送り迎えで招待した。喜んでくれた。今も必ず年に一度のごあいさつは欠かさないようにしている。「50年会社を続けられたのは自分に何の才能も無かったから人に感謝が出来た。お前はどうだ?感謝できるか?」「苦しいときは会社が成長してる時。楽なときは会社が停滞してる時。お前が選んでそうしてるんだろ?だったら苦しがるな。」毎年いろいろなアドバイスをもらえる。83歳になった大親方は耳が遠いので俺の話はほとんど聞こえない。だから、俺が意見も質問もすることはない。ニコニコしながらしてくれる一方的な話をただただ聞くのだ。今年が最後かもしれないと毎年思う。だから、聞いて咀嚼することにだけに集中する。年に一度のこの機会は、自分が納得しないと気が済まない俺にとって貴重な時間だ。今年ははじめて俺が酒をおごらせてもった。別れ際「きちんと職人を続けてくれてありがとう」なんて言われた。この仕事を選んで続けてきて良かったと思える一言だった。「技術を繋いでいく」ってことが恩返しだと解釈している。とにかく感謝している人だ。そんなふうに希望を抱いて独立した俺だったが、地獄が待っていた。当然、本当に多くの人に助けてもらえたから13年続けてこれてるわけだ。3人目にいく前に。修業時代の事を思い出したら、家具づくりがしたくなった。今は家具づくり以外にもやることがいっぱいで、そればかりに打ち込む事はできない。でも、ちょっと挑戦してみたいものがある。 The second person I would like to write as I appreciate is the big master "Mr. Ikuta Sakamoto" during my practice period. He was 70 years old at...
感謝する人たち2
2人目は修業時代の「坂本伊久太」大親方だ。当時70歳。リヤカーで日本橋を渡って三越に納品なんて時代から、総勢30数名の日田工芸を50年続けた強者だ。当時の俺は22歳。通わせてもらったインテリア・建築の学校を無事に卒業することになった。なぜか自信満々。根拠は無い。進路に迷う。どーせ頑張るんだったら世界一まで成り上がりたい。デザイン、建築、インテリアどれも魅力的だがアホな俺にはどうやって成り上がるのかわからない。なぜなら、クライアント無しでものづくりする事ができない。でも家具だったら工房さえあれば、商売になるかどうかは別として好きな物をつくって発信する事が容易だ。子供の頃から手先の器用さには自信があったし、単純に現物をまず自分で好き勝手に創れた方が手っ取り早いと考えた。そうして、修業期間は3年と勝手に決めて家具職人の門を叩いたのである。面接の時「3年で独立します。」と言った。そこにいるみんなの目が点になって一瞬後、笑いになった。そして「お前はバカか?修行は最低10年だ!」「同じハカリに乗せないで下さい」と答えた。また、目が点になって笑いになった。「じゃあ便所掃除からやってもらおうか?」で修行スタート。頭を剃って気合い十分。でも空回り。俺。。なんにもできねえ。。。あまりも不出来だった。自分でビックリした。自信は一瞬で砂より細かくなった。三ヶ月後に怪我をした。「失敗も多い。怪我までする。もうクビ」と言われた。「何でもします。もう少しだけ面倒見て下さい」で首の皮一枚つながった。職人はスポーツ選手に近い世界だ。早い遅い。上手い下手。が一目瞭然。怪我の多い者はそもそも使えない。当然誰も心配なんかしない。ポジションは出来る者が勝ち取る。先輩は若手に技術指導などしない。みんなライバルだ。プロなんだから出来て当たり前。褒められる事なんて無い。想像よりもずっと厳しかった。なにより自分が恥ずかしかった。でも、目標は変えない。絶対3年だ。その12月に俺は父親になった。逃げられねえ。おかげで腹が括れた。こんだけダメだと清々しくもあった。日本で一番家具づくりに時間を使おうと思った。誰よりも早く行って、始業前に鉋や鑿など道具の練習。誰よりも遅く残って、家具づくりの練習を兼ねた作品づくりを毎日やろうと決めた。メシ食ってるときも電車の中でも。出来れば寝てるときも。いつでもその事で頭を一杯にしよう。んで毎日20時間と決めた。生まれて初めてマジでやろうと決めた。でも、変わらず失敗ばかり。毎日怒られる。「ヘタクソ。帰れ。もう来んな。」の3段活用は日々の事だった。一年経っても変わらなかった。さらに半年が経った夜。22:00を過ぎた頃、いつもの居残り自主練習。電気代の節約ということで広い工場の中、電気は自分の作業スペースだけ。半径5メートル先から闇が広がる。正直ちょっと怖いが、それどころじゃない。集中して作業に打ち込む。闇と光の境界線に足が見えた。ドキッ!として固まる。パジャマ姿の大親方だった。「ま〜だやってんのか〜?!」「・・・・すんません。」「1年半毎日やってるな〜!いや〜それにしてもオマエ根性あるな〜!一年もたねえと思ってたのに〜」修行開始からはじめて人にほめられた。いや。一生懸命打ち込んだ事そのものがはじめてだったから、本当の意味で褒められたのは人生で初かもしれない。うれしかった。「あと半年がんばれ。オマエに環境をやる。」なんて言って帰って行った。その後、夜な夜な作った作品が朝日新聞主催のクラフト展で入選。新宿伊勢丹や日本橋三越で作品発表となった。そして半年。修行開始から2年が経っていた。朝の朝礼で大親方からの発表。「50年やってきて初めての試みだが、開発部をつくる。」・・・・「デザインから製作まで松岡1人に任せる。」っえ?何だ??「ただし条件は最低3日に2脚のペースで新作椅子をつくること。出来なきゃすぐに降格。」はい??マジでなに言ってんだ?よく分からないまま怒濤の日々が始まった。帰宅後デザイン案を6つ描く。朝、大親方にプレゼン。2つ選んで、よーいドンッ!!2〜3日で仕上げる為には完璧な段取りと10時間の集中力。失敗は許されない。朝と夜の自主練習は決めた事なのでやめない。そうするとスゴい日々になる。6:00起床。電車の中で今夜のためのスケッチしながら出勤。駅から会社までの自転車20分はその日の段取りを頭の中で反復イメトレ。7:30出社したら道具の手入れとその日の仕事の準備。8:30仕事開始。なんせ新作を3日で2脚。尋常じゃない。18:30作業終了。ここから自主練習タイム。22:00帰社。自転車に乗りながら翌日の段取りを頭に叩き込む。電車の中で今夜のためのスケッチ。23:30帰宅。デザイン案を描く。2:00寝る。の毎日。とんでもなく幸せな毎日だった。今振り返っても家具職人として今までで一番恵まれた環境だったと思う。自分でも実感できる成長速度は、日々生まれ変わっているような感覚だった。営業さんも積極的に売ってきてくれて、結果も出た。こんなチャンスをくれた大親方の期待に応える事ができて嬉しくもあり、ホッとした。半年が経った。いつのまにかそのペースに馴れてきた。職人としてこれ以上に恵まれた環境はあるのか?自問する。雇われの職人としてはこの上ないな。の結論に至る。もっともっと家具づくりがしたかった。じゃあ独立するしかねえな。その日に辞表を書いた。大親方は当然だが驚いた。「この環境に不満があるのか?!」「もっと挑戦したいんす。」「給料増やしてやる。」「金はいらねえっす。」「飽きちゃったのか?」「飽きちゃいました。」「最初っから3年って言ってたもんな。。」「すんません。。」とんでもなく身勝手ではあるが、数ヶ月後の退社が決まった。大親方はすごく悲しい顔をしていた。俺は「もっともっと」しか考えてなかった。直後、大親方は実務を退き会長職になった。三年後、日田工芸は廃業することになる。あれから13年。俺も経営者として人材育成をする立場。だから余計にわかる。ただ悲しかったろうなと思う。今、家具職人として居られるのはチャンスをくれた大親方のおかげだ。あの怒濤の日々は、数十年の経験に匹敵するほど濃密な時間だった。上の写真は2011年に大親方にとって思い出深い場所でもある新宿伊勢丹リビング売り場のメインステージで初めてkoma展をやらせてもらった時。俺の送り迎えで招待した。喜んでくれた。今も必ず年に一度のごあいさつは欠かさないようにしている。「50年会社を続けられたのは自分に何の才能も無かったから人に感謝が出来た。お前はどうだ?感謝できるか?」「苦しいときは会社が成長してる時。楽なときは会社が停滞してる時。お前が選んでそうしてるんだろ?だったら苦しがるな。」毎年いろいろなアドバイスをもらえる。83歳になった大親方は耳が遠いので俺の話はほとんど聞こえない。だから、俺が意見も質問もすることはない。ニコニコしながらしてくれる一方的な話をただただ聞くのだ。今年が最後かもしれないと毎年思う。だから、聞いて咀嚼することにだけに集中する。年に一度のこの機会は、自分が納得しないと気が済まない俺にとって貴重な時間だ。今年ははじめて俺が酒をおごらせてもった。別れ際「きちんと職人を続けてくれてありがとう」なんて言われた。この仕事を選んで続けてきて良かったと思える一言だった。「技術を繋いでいく」ってことが恩返しだと解釈している。とにかく感謝している人だ。そんなふうに希望を抱いて独立した俺だったが、地獄が待っていた。当然、本当に多くの人に助けてもらえたから13年続けてこれてるわけだ。3人目にいく前に。修業時代の事を思い出したら、家具づくりがしたくなった。今は家具づくり以外にもやることがいっぱいで、そればかりに打ち込む事はできない。でも、ちょっと挑戦してみたいものがある。 The second person I would like to write as I appreciate is the big master "Mr. Ikuta Sakamoto" during my practice period. He was 70 years old at...