DIARY
あけまして
自分で才能ってもんが無いなあと実感することが多い。特にセンスってことに関していうと皆無だ。だからプロ、アマに関わらず誰かが作ったモノや撮った写真、描いた絵などを見て「スゲエな〜真似できねえな〜」と影響を受ける事ばかりである。でも家具づくりが好きだ。最近はまた、本当にそう思えるようになってきた。残念ながら純粋にそう思えない時期も長くあった様に思う。お正月は俺も大義名分でお休みだ。ただ、一番やりたい事がたまたま家具づくりだから好きで勝手にやっているだけで、あくまでお休みだ。だから自分的に失敗しても段取りが狂っても何でも許せるお気楽な数日だ。プロとしてでなく純粋に好きだから作業ができる大好きな数日だ。才能もセンスも無えのに、気合いと根性だけでプロでいるってことはとっても大変なのだ。笑昨年は仲間達や先輩達に多くの機会と環境を与えてもらえたおかげで、自分にとって気付きの多い一年だった。つい先日の年の瀬にフッと何かが抜ける感じがして「オレはロクでもねえボケだな〜」とガッカリした。一番になりてえとか、勝ったとか負けたとか。今まで頑張る目的の最上位にあったものがどうでもよくなった。「最高の家具を創って、最高に喜んでもらって、最高にカッコ良くある。」KOMAの理念だ。最高の家具が創りたかったら、それと相等の知って、見て、買ってもらえる環境が創れなければただの自己満足でしかない。歴史の無い俺たちにとって実績が一つの裏付けとなり環境を得る。その為には職人としてプロジェクトに選抜してもらえるかどうか。作品がプランに選考されるかどうか。などなど、実績を積む為にはライバル達と比べられる機会も多いのは事実だし、その結果が次の環境を創るのも事実だ。だから、KOMAの理念を叶えるために最高の環境を得るまで勝ち続けて一番になる事が頑張る目的になった。理念を叶えることが目的?逆じゃない?理念は活動の根幹だろ?理念を持って何をするのかじゃないの?俺たちの理念は、関わってくれるみんなと一緒に喜びを得るためにあるのだ。それが頑張る目的だ。その為には得なきゃならない環境もあるし、勝たなきゃいけない時もあるってだけだ。まさに本末転倒だった。こだわるべき結果は、勝ち負けじゃない。みんなと一緒に楽しめてるかどうかだ。勝ち負けは、楽しむ為の過程の一つだ。当たりまえのことに気が付くのに時間がかかった。毎度のことに自分で嫌になる。でも気付けて良かった。あとは単純に、若者よ大志を抱け。で、修行スタートに俺はまず日本一の家具職人になる事を抱いた。数年前から、んなもん無いんじゃない?と薄々気付いていてが、若い自分が抱いた大志を簡単には裏切れないとの気持ちも勝ち負けにこだわる理由の一つだと思う。2015年は本当にありがたい環境に恵まれた。関わって下さった方々の御厚意で沢山の機会を与えてもらった。経済産業省wonder500選抜。paris design week選抜。ミラノ万博ジャパンサローネ展示。林野庁wood design award 奨励賞。林野庁wood furniture award japan選出。paris展示。百貨店でも色々な事に参加させてもらった。若い衆と一緒にTVで特集もしてもらった。本当にありがたい。それで、年の瀬にふと思った。環境や機会を得ることを結果とするなら、今はオレが日本一の家具職人か?と。修業時代にたてた目標はこれのコトか?と。イヤ。これでイイじゃん!と。俺より巧い家具職人なんて俺が知らねえだけでいくらでもいると思うし、売上が高い会社もいくらでもある。評価には色んな尺度や角度があるから、こんな事を言うと「ナニ言ってんだテメエ!」と彼方此方から叱咤の声が聞こえてきそうだが関係ねえ。機会に選択してもらえたって事に関して焦点を合わせれば、企業も個人も含めて紛れもなく俺とKOMAが一番だ。だからもうコレでイイじゃん。べつに俺の実力じゃない。仲間達や先輩方に、ただ時間と機会を与えてもらえただけだ。でも納得してくれ。若かりし俺。家具のジャンルも加工技術も得意分野は人それぞれだし、自分一人で得られるものなんて何も無い。だから一番なんてそのものが存在しない。勝手に俺がこしらえた幻だ。ただただ、ありがたいだけじゃん。。それに自己採点15点の俺ごときが得られる結果だ。だからもうコレで勘弁してくれ修業時代の俺。コレで約束を果たした事にしてくれ〜だけど一つ。おかげさまでスゲエ自信がついた。才能もセンスも無いけどゼッテエ負けねえっていう執着と根性だけでも何とかなる。認めてもらえる。って思えた。それもこれも関わってくれる人たちのおかげだ。そしてあらためて思う。己を囲む人こそが己の価値そのもの。俺も周りの人にとっての価値になれたら何より嬉しいと思う。でもやっぱり負けるのは大嫌いだ。自分が命を懸けて頑張ってるんだったら世界中の誰にも負けたくねえと思うのは本能として当たりまえだ。ただ、勝つことが目的じゃない。その先の本当に大切な目的が見えたってだけのほんの小さなこの一歩が大きな一歩だ。勝負のためのモノづくりじゃなくなるってことがこの先の家具づくりに必ず良い影響がある。ガキの頃から放っておけば一日中、何かを作ったり描いたりしていた。ずっとモノづくりが大好きだったからこの職業に就いた。窓から差し込む光を背中に作業をする親方衆が眩しかった。彼らが逆光の中、技を振るって木屑が舞う様にシビレた。いつか俺もあそこに!純粋に憧れた。また思い出した。遠回りしたなぁとも思うが、今はあの頃よりもっと深いところで好きになれた気がする。だから15年で15点の自己採点はイッキに20点にしてあげようと思うのだ。ここが本当のスタート地点だ。やっと辿り着いた。もう競わなくてイイ。俺はこんな親方だ。若い衆には迷惑をかける。気付きの大きな要因として若い衆の影響もデカイと思っている。そう思える立役者の一人が平塚剛史だ。 I think of myself as racking of talents. Especially, I have none in terms of kinds of senses. So, I tend...
あけまして
自分で才能ってもんが無いなあと実感することが多い。特にセンスってことに関していうと皆無だ。だからプロ、アマに関わらず誰かが作ったモノや撮った写真、描いた絵などを見て「スゲエな〜真似できねえな〜」と影響を受ける事ばかりである。でも家具づくりが好きだ。最近はまた、本当にそう思えるようになってきた。残念ながら純粋にそう思えない時期も長くあった様に思う。お正月は俺も大義名分でお休みだ。ただ、一番やりたい事がたまたま家具づくりだから好きで勝手にやっているだけで、あくまでお休みだ。だから自分的に失敗しても段取りが狂っても何でも許せるお気楽な数日だ。プロとしてでなく純粋に好きだから作業ができる大好きな数日だ。才能もセンスも無えのに、気合いと根性だけでプロでいるってことはとっても大変なのだ。笑昨年は仲間達や先輩達に多くの機会と環境を与えてもらえたおかげで、自分にとって気付きの多い一年だった。つい先日の年の瀬にフッと何かが抜ける感じがして「オレはロクでもねえボケだな〜」とガッカリした。一番になりてえとか、勝ったとか負けたとか。今まで頑張る目的の最上位にあったものがどうでもよくなった。「最高の家具を創って、最高に喜んでもらって、最高にカッコ良くある。」KOMAの理念だ。最高の家具が創りたかったら、それと相等の知って、見て、買ってもらえる環境が創れなければただの自己満足でしかない。歴史の無い俺たちにとって実績が一つの裏付けとなり環境を得る。その為には職人としてプロジェクトに選抜してもらえるかどうか。作品がプランに選考されるかどうか。などなど、実績を積む為にはライバル達と比べられる機会も多いのは事実だし、その結果が次の環境を創るのも事実だ。だから、KOMAの理念を叶えるために最高の環境を得るまで勝ち続けて一番になる事が頑張る目的になった。理念を叶えることが目的?逆じゃない?理念は活動の根幹だろ?理念を持って何をするのかじゃないの?俺たちの理念は、関わってくれるみんなと一緒に喜びを得るためにあるのだ。それが頑張る目的だ。その為には得なきゃならない環境もあるし、勝たなきゃいけない時もあるってだけだ。まさに本末転倒だった。こだわるべき結果は、勝ち負けじゃない。みんなと一緒に楽しめてるかどうかだ。勝ち負けは、楽しむ為の過程の一つだ。当たりまえのことに気が付くのに時間がかかった。毎度のことに自分で嫌になる。でも気付けて良かった。あとは単純に、若者よ大志を抱け。で、修行スタートに俺はまず日本一の家具職人になる事を抱いた。数年前から、んなもん無いんじゃない?と薄々気付いていてが、若い自分が抱いた大志を簡単には裏切れないとの気持ちも勝ち負けにこだわる理由の一つだと思う。2015年は本当にありがたい環境に恵まれた。関わって下さった方々の御厚意で沢山の機会を与えてもらった。経済産業省wonder500選抜。paris design week選抜。ミラノ万博ジャパンサローネ展示。林野庁wood design award 奨励賞。林野庁wood furniture award japan選出。paris展示。百貨店でも色々な事に参加させてもらった。若い衆と一緒にTVで特集もしてもらった。本当にありがたい。それで、年の瀬にふと思った。環境や機会を得ることを結果とするなら、今はオレが日本一の家具職人か?と。修業時代にたてた目標はこれのコトか?と。イヤ。これでイイじゃん!と。俺より巧い家具職人なんて俺が知らねえだけでいくらでもいると思うし、売上が高い会社もいくらでもある。評価には色んな尺度や角度があるから、こんな事を言うと「ナニ言ってんだテメエ!」と彼方此方から叱咤の声が聞こえてきそうだが関係ねえ。機会に選択してもらえたって事に関して焦点を合わせれば、企業も個人も含めて紛れもなく俺とKOMAが一番だ。だからもうコレでイイじゃん。べつに俺の実力じゃない。仲間達や先輩方に、ただ時間と機会を与えてもらえただけだ。でも納得してくれ。若かりし俺。家具のジャンルも加工技術も得意分野は人それぞれだし、自分一人で得られるものなんて何も無い。だから一番なんてそのものが存在しない。勝手に俺がこしらえた幻だ。ただただ、ありがたいだけじゃん。。それに自己採点15点の俺ごときが得られる結果だ。だからもうコレで勘弁してくれ修業時代の俺。コレで約束を果たした事にしてくれ〜だけど一つ。おかげさまでスゲエ自信がついた。才能もセンスも無いけどゼッテエ負けねえっていう執着と根性だけでも何とかなる。認めてもらえる。って思えた。それもこれも関わってくれる人たちのおかげだ。そしてあらためて思う。己を囲む人こそが己の価値そのもの。俺も周りの人にとっての価値になれたら何より嬉しいと思う。でもやっぱり負けるのは大嫌いだ。自分が命を懸けて頑張ってるんだったら世界中の誰にも負けたくねえと思うのは本能として当たりまえだ。ただ、勝つことが目的じゃない。その先の本当に大切な目的が見えたってだけのほんの小さなこの一歩が大きな一歩だ。勝負のためのモノづくりじゃなくなるってことがこの先の家具づくりに必ず良い影響がある。ガキの頃から放っておけば一日中、何かを作ったり描いたりしていた。ずっとモノづくりが大好きだったからこの職業に就いた。窓から差し込む光を背中に作業をする親方衆が眩しかった。彼らが逆光の中、技を振るって木屑が舞う様にシビレた。いつか俺もあそこに!純粋に憧れた。また思い出した。遠回りしたなぁとも思うが、今はあの頃よりもっと深いところで好きになれた気がする。だから15年で15点の自己採点はイッキに20点にしてあげようと思うのだ。ここが本当のスタート地点だ。やっと辿り着いた。もう競わなくてイイ。俺はこんな親方だ。若い衆には迷惑をかける。気付きの大きな要因として若い衆の影響もデカイと思っている。そう思える立役者の一人が平塚剛史だ。 I think of myself as racking of talents. Especially, I have none in terms of kinds of senses. So, I tend...
亀井 敏裕
【亀井 敏裕】亀とよんでいる。親友、戦友、同士、相棒。なにかなあ?と考える。1998年。出会いは美術の専門学校。最初の会話は「このクラスかわいい子いねえな〜」だった。卒業後、俺は家具職人の修行に入り、亀井は独学で彫金の道に進んだ。ちょくちょくやり取りする仲が続いた。2003年。独立を考えて亀井に声を掛けた。お互い個人事業主で工房をシェアしないか?という誘いだ。何も知らない俺たちは今思えばどーでもイイが、見よう見まねで事業計画などを書いて準備した。それはそれで何か人生が進んでいる感じがして楽しかった。独立はアマくなかった。最初に持ち寄った300万はすぐに底をついた。亀井は彼女との間に子供がデキて結婚し横浜から通うことになった。俺には2人目の子供がデキた。無計画ここに極まり。仕事が無い。とにかく単価を下げて仕事にありつく。それでも、同業者からの下請けはしないと決めていた。やってもやっても金にならない。それでも徹夜でやらなきゃ終わらない。工房に行くガソリン代が無い日もあった。もらい物の汚ねえ1BOXの荷台で梱包用のホコリまみれの毛布にくるまって寝た。食べようかどうしようかと迷いに迷い2人でラーメンを食べた事を覚えている。あの一杯が今までのどのラーメンよりも一番美味かったな〜と今でも話題に挙るほど身体に染み渡った。半年あたりから亀井は体調を崩した。そして一年が経った頃、横浜から車で出勤中に事故を起こした。居眠り運転だった。搬送された病院に向かう途中、クシャクシャのボールの様に丸くなった亀井の車を見た。大きな怪我はなかったが、亀井の心は折れた。「もう続けられない」共同でシェアするはずが身勝手すぎるだろう?なに折れてんだよ?喧嘩になった。30段くらいはあるだろうか?立川駅の階段のてっぺんから蹴り落とした。人だかりができた。救急車が来た。それで解散だ。俺は一人でKOMAをつづけた。一人になった分、家賃や光熱費の負担などで余計に苦しくなった。俺ももうダメかな?と思っていた。前にも書いたので割愛するが、多くの人に恵まれて首の皮一枚で浮上が始まる。あれからずっと亀の事が頭を巡っていた。言葉にすると陳腐になるが「夢半ば」だった。勝手に亀の復帰を目指し仕事をする様になる。担当してもらう仕事を想像して亀の分の仕事量の確保を目指した。その頃、亀は八王子で家具職人としての修行を初めていていた。解散から一年、亀を誘って酒を飲む。「もう一回一緒にやらねえか?」を言いたかった。「絶対にやらねえ」の返事は予想どおりだった。半年間、言い続けた。奥さんを説得して戻ってきてくれた。俺がアタマで亀はNO2。共同経営じゃない。責任は俺が持つ。まず一年で1000万の現金をつくる。工房の引っ越し、機械の入れ替え、従業員の雇用を最初の目標に走り出した。2007年。二人三脚がはじまった。現在に至るまでは、この場だけでは書ききれないので割愛するが目紛しい日々だった。苦しくもあったが楽しかった。しかしこの3年は俺と亀の間にミゾがうまれた。ありがたい事だが、外からの評価が一人歩きしていった。毎月の雑誌の取材。TVで特集。世に出る機会も増えていった。実際の実力よりも高い評価を受けている様な気がした。怖くなった。KOMAのメッキが剥がれる前に追いつかねえと。と錯覚した。俺がやらねえと。止まれねえ。あの頃には戻りたくねえの一心だった。俺は勝ち進む事に執着した。歴史の無い俺たちにとって勝ちを得ることだけが生き残る道だと思った。いつのまにか一人で戦うようになった。外ばかり見て会社の中は一切見る事がなくなった。人数も、機械設備も、俺たちの実力も、会社の中身は何も変わってないのに、対外的な評価に追いつく為にやらなきゃいけない事だけが大きく増えた。小さな会社は全ての業務を自分たちが担わなければならない。会社と社会の状況で自分たちが求められる役割は目紛しく変わる。会社にとって足りないスキルは自分が身につければならない。役割分担はただのなすり合いになった。頼り合うのではなく丸投げしあった。身のあるコミュニケーションは減り、何かを一緒に考え行動する事が無くなった。いつの間にか俺と亀の二人三脚はバラバラになっていた。俺の焦りは亀に実力以上を求めるようになった。俺が荒れる事も多くなった。亀のヤル気は少なくなった。上手くいかない事は互いに互いのせいにした。KOMAの成長に自分たちがついていけていなかった。とは言え、全てが悪かった訳じゃない。俺も悪かったし亀も悪かった。亀は悪くねえし俺も悪くねえ。といったところだ。もちろん反省すべき点は多々ある。反省があれば次に繋がる。現に今、こうしてKOMAは存在する。10年生き残る会社は3%と言われる中でちゃんと存在しているのだ。遠回りしたんじゃない。KOMAを生き残らせる為にお互いに必死でやってきた結果、生き残っているという事実がある。言い訳ではなく、ああなる他に無かったように思う。維持継続の為に経なければならない時間だったように思う。弱さを経験していない強さは無いのだ。強くなる為に気付けた弱さだ。今、KOMAは本当に強くなろうとしている。もう、今のKOMAが求めている事は俺と亀だけでは全然足りなくなっちまったって事に気付けた。だからこそ役割があるのだ。若い衆が定着し大きく成長してくれたおかげで気付きが得れた。あの頃の二人三脚を今のKOMAでやれるようになってきた。そして、今は二人じゃない。全員で肩を組んで一歩ずつ進むのだ。俺にとって亀井は、自分を映す鏡だ。親友、戦友、同士、相棒でもあるが、それらを超えた存在でもある。年の瀬に気付けて良かった。本当に新年が楽しみに迎えられるのは何年ぶりか。もちろん不安も多くあるけどね。とにかく、いろんな事と仲間達がありがてえ。よいお年を〜 I call him "Kame". Sidekick, the best buddy, fellow, partner. What would be best expression abut him for me ? 1998. We met for the first time at...
亀井 敏裕
【亀井 敏裕】亀とよんでいる。親友、戦友、同士、相棒。なにかなあ?と考える。1998年。出会いは美術の専門学校。最初の会話は「このクラスかわいい子いねえな〜」だった。卒業後、俺は家具職人の修行に入り、亀井は独学で彫金の道に進んだ。ちょくちょくやり取りする仲が続いた。2003年。独立を考えて亀井に声を掛けた。お互い個人事業主で工房をシェアしないか?という誘いだ。何も知らない俺たちは今思えばどーでもイイが、見よう見まねで事業計画などを書いて準備した。それはそれで何か人生が進んでいる感じがして楽しかった。独立はアマくなかった。最初に持ち寄った300万はすぐに底をついた。亀井は彼女との間に子供がデキて結婚し横浜から通うことになった。俺には2人目の子供がデキた。無計画ここに極まり。仕事が無い。とにかく単価を下げて仕事にありつく。それでも、同業者からの下請けはしないと決めていた。やってもやっても金にならない。それでも徹夜でやらなきゃ終わらない。工房に行くガソリン代が無い日もあった。もらい物の汚ねえ1BOXの荷台で梱包用のホコリまみれの毛布にくるまって寝た。食べようかどうしようかと迷いに迷い2人でラーメンを食べた事を覚えている。あの一杯が今までのどのラーメンよりも一番美味かったな〜と今でも話題に挙るほど身体に染み渡った。半年あたりから亀井は体調を崩した。そして一年が経った頃、横浜から車で出勤中に事故を起こした。居眠り運転だった。搬送された病院に向かう途中、クシャクシャのボールの様に丸くなった亀井の車を見た。大きな怪我はなかったが、亀井の心は折れた。「もう続けられない」共同でシェアするはずが身勝手すぎるだろう?なに折れてんだよ?喧嘩になった。30段くらいはあるだろうか?立川駅の階段のてっぺんから蹴り落とした。人だかりができた。救急車が来た。それで解散だ。俺は一人でKOMAをつづけた。一人になった分、家賃や光熱費の負担などで余計に苦しくなった。俺ももうダメかな?と思っていた。前にも書いたので割愛するが、多くの人に恵まれて首の皮一枚で浮上が始まる。あれからずっと亀の事が頭を巡っていた。言葉にすると陳腐になるが「夢半ば」だった。勝手に亀の復帰を目指し仕事をする様になる。担当してもらう仕事を想像して亀の分の仕事量の確保を目指した。その頃、亀は八王子で家具職人としての修行を初めていていた。解散から一年、亀を誘って酒を飲む。「もう一回一緒にやらねえか?」を言いたかった。「絶対にやらねえ」の返事は予想どおりだった。半年間、言い続けた。奥さんを説得して戻ってきてくれた。俺がアタマで亀はNO2。共同経営じゃない。責任は俺が持つ。まず一年で1000万の現金をつくる。工房の引っ越し、機械の入れ替え、従業員の雇用を最初の目標に走り出した。2007年。二人三脚がはじまった。現在に至るまでは、この場だけでは書ききれないので割愛するが目紛しい日々だった。苦しくもあったが楽しかった。しかしこの3年は俺と亀の間にミゾがうまれた。ありがたい事だが、外からの評価が一人歩きしていった。毎月の雑誌の取材。TVで特集。世に出る機会も増えていった。実際の実力よりも高い評価を受けている様な気がした。怖くなった。KOMAのメッキが剥がれる前に追いつかねえと。と錯覚した。俺がやらねえと。止まれねえ。あの頃には戻りたくねえの一心だった。俺は勝ち進む事に執着した。歴史の無い俺たちにとって勝ちを得ることだけが生き残る道だと思った。いつのまにか一人で戦うようになった。外ばかり見て会社の中は一切見る事がなくなった。人数も、機械設備も、俺たちの実力も、会社の中身は何も変わってないのに、対外的な評価に追いつく為にやらなきゃいけない事だけが大きく増えた。小さな会社は全ての業務を自分たちが担わなければならない。会社と社会の状況で自分たちが求められる役割は目紛しく変わる。会社にとって足りないスキルは自分が身につければならない。役割分担はただのなすり合いになった。頼り合うのではなく丸投げしあった。身のあるコミュニケーションは減り、何かを一緒に考え行動する事が無くなった。いつの間にか俺と亀の二人三脚はバラバラになっていた。俺の焦りは亀に実力以上を求めるようになった。俺が荒れる事も多くなった。亀のヤル気は少なくなった。上手くいかない事は互いに互いのせいにした。KOMAの成長に自分たちがついていけていなかった。とは言え、全てが悪かった訳じゃない。俺も悪かったし亀も悪かった。亀は悪くねえし俺も悪くねえ。といったところだ。もちろん反省すべき点は多々ある。反省があれば次に繋がる。現に今、こうしてKOMAは存在する。10年生き残る会社は3%と言われる中でちゃんと存在しているのだ。遠回りしたんじゃない。KOMAを生き残らせる為にお互いに必死でやってきた結果、生き残っているという事実がある。言い訳ではなく、ああなる他に無かったように思う。維持継続の為に経なければならない時間だったように思う。弱さを経験していない強さは無いのだ。強くなる為に気付けた弱さだ。今、KOMAは本当に強くなろうとしている。もう、今のKOMAが求めている事は俺と亀だけでは全然足りなくなっちまったって事に気付けた。だからこそ役割があるのだ。若い衆が定着し大きく成長してくれたおかげで気付きが得れた。あの頃の二人三脚を今のKOMAでやれるようになってきた。そして、今は二人じゃない。全員で肩を組んで一歩ずつ進むのだ。俺にとって亀井は、自分を映す鏡だ。親友、戦友、同士、相棒でもあるが、それらを超えた存在でもある。年の瀬に気付けて良かった。本当に新年が楽しみに迎えられるのは何年ぶりか。もちろん不安も多くあるけどね。とにかく、いろんな事と仲間達がありがてえ。よいお年を〜 I call him "Kame". Sidekick, the best buddy, fellow, partner. What would be best expression abut him for me ? 1998. We met for the first time at...
海老沢 俊
【海老沢 俊】エビちゃんとよんでいる。俺が昔、人を困らせたり迷惑を掛けたりしたオトシマエとして、俺の誕生日に合わせて神様か仏様が送り込んだのだと思っている。笑人の言う事は全く聞かない。我が道をただひたすら突き進んだかと思えば自分の都合で立ち止まったりする。社会不適合者だが、突き抜け過ぎていて善し悪しを超越している。本人に自覚が無い所が本物の証だと思う。2009年7月西新宿にあるデザインセンターOZONEで展覧会をしていた。俺は接客の様なことが相変わらず苦手で、会場の入り口に設置されている受付カウンターの中に脚を組んで座り、眉間にしわを寄せて本を読んでいる。だから誰も話しかけてこない。全く役割を果たしていないがそれでいいのだ。出来ないことは出来ないのだ。そんな時。「あの〜すみません。。。」蚊の鳴くような声のお手本だ。目を上げると色白でポチャポチャしたお餅みたいな顔に昔の数学教師みたいな眼鏡をかけた少年が立っていた。微妙にサイズが合っていないヨレたTシャツにジーパン。大きなリュックを背負っている。「なに?」「募集要項を見て。。。」「募集なんかしてねえよ。」また活字に目を落とす。「あの〜すみません。。。」「なんだよ。」手に握られたクシャクシャの紙を見せてくる。数年前に木工職業訓練校にFAXした募集要項だ。「いつのだよ?今はしてねえよ。」また目を落とす。「あの〜すみません。。。」「なんだよ!!!」「どうしてもダメですか?」「まともに声も出せねえヤツに勤まる仕事じゃねえんだよ。だいたいオマエまだガキだろ!?」「28歳です。」「28?!イイ歳じゃねえか!15くらいに思ったよ。よけいダメ。帰れ。」またまた目を落とす。一分経過。「あの〜すみません。。。」「なんなんだよっ!?」「工場見学だけでもダメですか?」数日後、あの時と全く同じ格好でやって来た。「まあ。せっかく来たし手伝ってみる?」「ハイ!」この日は7月7日。俺の誕生日だった。「明日も来る?」「ハイ!」「明日も来る?」「ハイ!」で一週間が経った。「ところでオマエの名前は?」「エビサワです。海老沢 俊です。」「とりあえず履歴書持って来な。」「ハイ!」これが始まりだ。どんな生活をおくってきたのか、とにかく何も知らないし何も出来ない。新宿区、渋谷区が東京都であることも、ビートたけし、ダウンタウンという芸能人も。総理大臣も大統領もスポーツもファッションも音楽も歴史も何もかも真っ白だ。言った事もすぐに忘れてしまう。もう一度履歴書を見てみる。確かに国立大学を卒業してる。「ウソだろ」「イヤイヤ本当ですよ〜笑」「絶対ウソだろ!笑」とにかく仕事はヒドいもんだ。全ての作業で必ず失敗する。配送もダメ。お台場に行くはずが世田谷に行ってしまう。事故って、積んであった家具も破損。ミラクルの様な失敗の連続だ。その度にニコニコして「いや〜すみません。。。」ブン殴りたくなる。いつクビにしようか考えながら一年が経った。また7月7日。俺の誕生日。「毎日迷惑かけちゃうんで辞めます。」エビちゃんの方から言ってきた。願ったり叶ったりのはずだったが、自分でも信じられない言葉が出てきた。「ダメだ。辞めさせねえ。俺もオマエも何の結果も出してねえ。」頑固な彼の説得に深夜までかかった。家に帰ると子供達が誕生日パーティーを企画してくれていたらしく部屋が折り紙やイラストで飾られていたが子供達はすでに寝ていた。翌日。エビちゃんに缶コーヒーをおごらせた。それから少しづつ仕事は覚えた。6年間KOMAに努め、先月独立をした。おっとり優しいエビちゃんは俺と若い衆の緩衝材の役割を果たしてくれた。そして、いつものニコニコな様子だが、俺に物怖じせずに意見するヤツだった。「全部、松岡さんが悪いんですよ〜笑」とよく言われた。今、なぜあの時クビにしなかったのかを考える。失敗したら怒られる。だからみんな誤摩化したりウソをついたりしてしまう。当然、俺にも経験はある。人の十倍失敗したけどエビちゃんは絶対に誤摩化さなかった。人の意見や情報に左右されない。頑固は決して良い事ではないが、突き抜けていれば善し悪しを超越する。他人は自分を映す鏡と言うが、自分が自分で嫌いな所が相手の中に見えた時、人は人を憎むのだと思う。俺とエビちゃんはとにかく正反対。似た所が全くない。だから尊重できたのかもしれないし、一緒にいてただ楽だっただけかもしれない。俺たちは水と油だ。彼から教わった事は特にない。俺が教えた事も特にない。だけど信頼から芽生える友情に近い感情が生まれた様に思う。そして、間違いなく今のKOMAを創った一人である。頑張っても頑張らなくても、成功しても失敗しても何でも良いのだ。彼は唯一無二のエビちゃんだからだ。だからこれからも俺たちの関係は続くだろう。どうであれ、手間は掛かるが俺のお気に入りの大好きなヤツだ。きっと彼も同じ様に想ってくれていると思う。今日、年末の大掃除をしていると、アイツの残していったガラクタが散々出てくる。全て捨てるのだ。どうせアイツは何も覚えていないのだから。笑友情と言えば、それを遥かに超えた存在である亀井が浮かぶ。今年の締めくくりは亀井について書こうと思う。 I call him "Ebi-chan". I recognize him as something like compensation to what I bothered or troubled others from God or Buddha to my birthday, lol. He does...
海老沢 俊
【海老沢 俊】エビちゃんとよんでいる。俺が昔、人を困らせたり迷惑を掛けたりしたオトシマエとして、俺の誕生日に合わせて神様か仏様が送り込んだのだと思っている。笑人の言う事は全く聞かない。我が道をただひたすら突き進んだかと思えば自分の都合で立ち止まったりする。社会不適合者だが、突き抜け過ぎていて善し悪しを超越している。本人に自覚が無い所が本物の証だと思う。2009年7月西新宿にあるデザインセンターOZONEで展覧会をしていた。俺は接客の様なことが相変わらず苦手で、会場の入り口に設置されている受付カウンターの中に脚を組んで座り、眉間にしわを寄せて本を読んでいる。だから誰も話しかけてこない。全く役割を果たしていないがそれでいいのだ。出来ないことは出来ないのだ。そんな時。「あの〜すみません。。。」蚊の鳴くような声のお手本だ。目を上げると色白でポチャポチャしたお餅みたいな顔に昔の数学教師みたいな眼鏡をかけた少年が立っていた。微妙にサイズが合っていないヨレたTシャツにジーパン。大きなリュックを背負っている。「なに?」「募集要項を見て。。。」「募集なんかしてねえよ。」また活字に目を落とす。「あの〜すみません。。。」「なんだよ。」手に握られたクシャクシャの紙を見せてくる。数年前に木工職業訓練校にFAXした募集要項だ。「いつのだよ?今はしてねえよ。」また目を落とす。「あの〜すみません。。。」「なんだよ!!!」「どうしてもダメですか?」「まともに声も出せねえヤツに勤まる仕事じゃねえんだよ。だいたいオマエまだガキだろ!?」「28歳です。」「28?!イイ歳じゃねえか!15くらいに思ったよ。よけいダメ。帰れ。」またまた目を落とす。一分経過。「あの〜すみません。。。」「なんなんだよっ!?」「工場見学だけでもダメですか?」数日後、あの時と全く同じ格好でやって来た。「まあ。せっかく来たし手伝ってみる?」「ハイ!」この日は7月7日。俺の誕生日だった。「明日も来る?」「ハイ!」「明日も来る?」「ハイ!」で一週間が経った。「ところでオマエの名前は?」「エビサワです。海老沢 俊です。」「とりあえず履歴書持って来な。」「ハイ!」これが始まりだ。どんな生活をおくってきたのか、とにかく何も知らないし何も出来ない。新宿区、渋谷区が東京都であることも、ビートたけし、ダウンタウンという芸能人も。総理大臣も大統領もスポーツもファッションも音楽も歴史も何もかも真っ白だ。言った事もすぐに忘れてしまう。もう一度履歴書を見てみる。確かに国立大学を卒業してる。「ウソだろ」「イヤイヤ本当ですよ〜笑」「絶対ウソだろ!笑」とにかく仕事はヒドいもんだ。全ての作業で必ず失敗する。配送もダメ。お台場に行くはずが世田谷に行ってしまう。事故って、積んであった家具も破損。ミラクルの様な失敗の連続だ。その度にニコニコして「いや〜すみません。。。」ブン殴りたくなる。いつクビにしようか考えながら一年が経った。また7月7日。俺の誕生日。「毎日迷惑かけちゃうんで辞めます。」エビちゃんの方から言ってきた。願ったり叶ったりのはずだったが、自分でも信じられない言葉が出てきた。「ダメだ。辞めさせねえ。俺もオマエも何の結果も出してねえ。」頑固な彼の説得に深夜までかかった。家に帰ると子供達が誕生日パーティーを企画してくれていたらしく部屋が折り紙やイラストで飾られていたが子供達はすでに寝ていた。翌日。エビちゃんに缶コーヒーをおごらせた。それから少しづつ仕事は覚えた。6年間KOMAに努め、先月独立をした。おっとり優しいエビちゃんは俺と若い衆の緩衝材の役割を果たしてくれた。そして、いつものニコニコな様子だが、俺に物怖じせずに意見するヤツだった。「全部、松岡さんが悪いんですよ〜笑」とよく言われた。今、なぜあの時クビにしなかったのかを考える。失敗したら怒られる。だからみんな誤摩化したりウソをついたりしてしまう。当然、俺にも経験はある。人の十倍失敗したけどエビちゃんは絶対に誤摩化さなかった。人の意見や情報に左右されない。頑固は決して良い事ではないが、突き抜けていれば善し悪しを超越する。他人は自分を映す鏡と言うが、自分が自分で嫌いな所が相手の中に見えた時、人は人を憎むのだと思う。俺とエビちゃんはとにかく正反対。似た所が全くない。だから尊重できたのかもしれないし、一緒にいてただ楽だっただけかもしれない。俺たちは水と油だ。彼から教わった事は特にない。俺が教えた事も特にない。だけど信頼から芽生える友情に近い感情が生まれた様に思う。そして、間違いなく今のKOMAを創った一人である。頑張っても頑張らなくても、成功しても失敗しても何でも良いのだ。彼は唯一無二のエビちゃんだからだ。だからこれからも俺たちの関係は続くだろう。どうであれ、手間は掛かるが俺のお気に入りの大好きなヤツだ。きっと彼も同じ様に想ってくれていると思う。今日、年末の大掃除をしていると、アイツの残していったガラクタが散々出てくる。全て捨てるのだ。どうせアイツは何も覚えていないのだから。笑友情と言えば、それを遥かに超えた存在である亀井が浮かぶ。今年の締めくくりは亀井について書こうと思う。 I call him "Ebi-chan". I recognize him as something like compensation to what I bothered or troubled others from God or Buddha to my birthday, lol. He does...
武内 舞子
【武内 舞子】マイちゃんと呼んでいる。神様か仏様からの贈り物だと思っている。今ではKOMAに無くてはならない存在である。仕事内容、存在感共にそれほどのウエイトを担ってくれている。どの男達よりも仕事をしている。2012年。最初に会ったのはどこだか忘れたがKOMAの展覧会に荻坊が連れてきた。家具づくりの学校に通っていると言っていた。23歳になろうとする今では超生意気で男だったらブン殴ってるが、当時は19歳のかわいらしい女の子だった。数ヶ月後、とんでもなく忙しい日々。猫の手も借りたいとはこの事だ。あの時のあの子を思い出した。週一でもいいからバイトにこない?で通ってくることになる。バリバリの職人の男社会で修行した俺が運営するKOMAもまたバリバリだ。女の子とどう接していいか分からない。なんだか気を使うのも面倒だ。仕事の上でも雑用係と俺の接点はほとんど無い。そして数ヶ月。忙しさには拍車がかかる。週三でこれない?週四でこれない?週五で来れない?なんとも都合の良い話だ。そんな最中。2014年7月。ある日突然、彼女にとってチャンスが訪れる。彼女の先輩にあたる若い衆がバックレたのだ。その彼が担当していた仕事を彼女にダメモトでやらせてみた。ん?え?マジ?超上手いじゃん!!!最初の一本目から先輩達よりも上手い!!そして速い!!二本目、三本目と回を追うごとにドンドン上手くなる!!生意気小僧の片鱗も現れた。「これくらい出来て当たりまえじゃないっすか?」だって。。聞けば家は大工の家系で小さな頃から作業場が遊び場だったそうだ。木材への刃物の入れ方のセンスが違う。手つき身のこなしに「理」がある。全く気付いていなかった俺のダメ親方ぶりが露呈された。お恥ずかしい。。後で分かったが、ずっと密かに練習をしていたらしい。変にアピールしてこないそこら辺も俺なんかよりずっと凛々しくて好きな所だ。どの業界も同じだろうが一つ一つのチャンスをキチッとモノにしていく事が大切だ。いつでも来い!と思えるまでの準備。今がチャンス!と感じるセンサー。必ず掴む!という気合い。チャンスを掴んで駆け上がっていく人間の様は傍目に見ても面白い。そこからはアッという間だ。じゃあこれ出来る?じゃあこれやってみ?の繰り返し。どこまでもついてくる。未だ天井知らずだ。最近では俺とスピードでハリあう事もある。お客様にとっては関係ないが、職人にとってスピードは最重要と言っても良い。もちろんクオリティーが最優先だが、同じ品質だったら早けりゃその方が良いに決まってる。なぜなら、職人にとっては、どれだけ段取りよく効率良く仕事ができたか?ってことに繋がるからだ。段取りと効率の良さはクオリティーに直結する。止まる事無く、無駄なく、理にかなった動きで流れる様に作業出来ているときは、違う世界にブッとんでいるような感覚になる。何も考えていない。ただ目の前にあるコトだけ。身体は俺のモノじゃなくなる。そんな時はとんでもなく良い家具が創れる。当然、ブッチギリで速くもある。その為には準備も必要だ。前夜から製作物の寸法や角度を頭に叩き込む。作業工程を一から何度も何度もイメージする。帰りの車の中、晩飯、風呂、何をやってる時もずっとだ。そんで、歩き方の一歩までイメージ出来たらそのまま寝る。すると大抵、夢の中でも考えられる。意外と良いアイデアが出たりする時もある。朝には髪の先まで集中できてる。作業の直前まで確認をして、よーいドンだ。だから、「速い」は職人にとって「どれだけこの仕事マジでヤッてますか?」ってことだ。そして、会社を持続させる事において「仕事が速いヤツ」っていうのは「最高に仕事がデキるヤツ」だ。なぜなら儲かるからだ。俺たちはアーティストじゃない。作ってなんぼの職人だ!椅子一脚の極一部の仕上げだが、難易度の高い部分がある。道具は刀、鉋とサンドペパーだ。今までの若い衆の平均が60分前後。俺がサラッとやって30分。だから、「60分でいいけど、30分で出来たらホメてやるよ〜」そしたら28分だった。マジかよ?じゃあイッチョやってやろうか?!で俺が22分。そしたら18分を出してきた。この野郎!で俺が15分彼女は18分を切れず。もう一回、俺がダメ押しの13分で勝負ありだ。でも、これに関しては、あと少しで抜かれるな〜と思う。。笑今年、賞や海外展示などで大活躍だったKOMA初の量産モデルであるsim chairは彼女のおかげでうまれた椅子だ。KOMAの椅子は量産と言えど職人技を多く盛り込む。その為、量産型を維持継続は技術の維持継続とイコールだ。今までは俺にしか出来なかった刀などで行う仕上げ作業は製産数に限りがある。一人ではとても出来ない。でもずっとやりたかった事の一つだ。その目標が叶って、会社の可能性を大きく変えたと思う。そのおかげで、若い衆一人一人の成長が会社全体に大きな影響を与える事を知った。それも、俺だけでは絶対出来ないトンでもなく大きな影響だ。こっちが本気で期待すれば、人はそれ以上で応える努力をしてくれるってことを教えてもらった。親方から受け継いだ技術を繋げる子がやっと出てきた。俺にとってマイちゃんは宝そのものである。そんなマイちゃんに片思いを続けた男がいる。最年長のエビちゃんだ。最近独立をした。 I call her "Mai-chan". I recognize her as something like gift from God or Buddha. She now is indispensable member of KOMA. She takes larger roles in...
武内 舞子
【武内 舞子】マイちゃんと呼んでいる。神様か仏様からの贈り物だと思っている。今ではKOMAに無くてはならない存在である。仕事内容、存在感共にそれほどのウエイトを担ってくれている。どの男達よりも仕事をしている。2012年。最初に会ったのはどこだか忘れたがKOMAの展覧会に荻坊が連れてきた。家具づくりの学校に通っていると言っていた。23歳になろうとする今では超生意気で男だったらブン殴ってるが、当時は19歳のかわいらしい女の子だった。数ヶ月後、とんでもなく忙しい日々。猫の手も借りたいとはこの事だ。あの時のあの子を思い出した。週一でもいいからバイトにこない?で通ってくることになる。バリバリの職人の男社会で修行した俺が運営するKOMAもまたバリバリだ。女の子とどう接していいか分からない。なんだか気を使うのも面倒だ。仕事の上でも雑用係と俺の接点はほとんど無い。そして数ヶ月。忙しさには拍車がかかる。週三でこれない?週四でこれない?週五で来れない?なんとも都合の良い話だ。そんな最中。2014年7月。ある日突然、彼女にとってチャンスが訪れる。彼女の先輩にあたる若い衆がバックレたのだ。その彼が担当していた仕事を彼女にダメモトでやらせてみた。ん?え?マジ?超上手いじゃん!!!最初の一本目から先輩達よりも上手い!!そして速い!!二本目、三本目と回を追うごとにドンドン上手くなる!!生意気小僧の片鱗も現れた。「これくらい出来て当たりまえじゃないっすか?」だって。。聞けば家は大工の家系で小さな頃から作業場が遊び場だったそうだ。木材への刃物の入れ方のセンスが違う。手つき身のこなしに「理」がある。全く気付いていなかった俺のダメ親方ぶりが露呈された。お恥ずかしい。。後で分かったが、ずっと密かに練習をしていたらしい。変にアピールしてこないそこら辺も俺なんかよりずっと凛々しくて好きな所だ。どの業界も同じだろうが一つ一つのチャンスをキチッとモノにしていく事が大切だ。いつでも来い!と思えるまでの準備。今がチャンス!と感じるセンサー。必ず掴む!という気合い。チャンスを掴んで駆け上がっていく人間の様は傍目に見ても面白い。そこからはアッという間だ。じゃあこれ出来る?じゃあこれやってみ?の繰り返し。どこまでもついてくる。未だ天井知らずだ。最近では俺とスピードでハリあう事もある。お客様にとっては関係ないが、職人にとってスピードは最重要と言っても良い。もちろんクオリティーが最優先だが、同じ品質だったら早けりゃその方が良いに決まってる。なぜなら、職人にとっては、どれだけ段取りよく効率良く仕事ができたか?ってことに繋がるからだ。段取りと効率の良さはクオリティーに直結する。止まる事無く、無駄なく、理にかなった動きで流れる様に作業出来ているときは、違う世界にブッとんでいるような感覚になる。何も考えていない。ただ目の前にあるコトだけ。身体は俺のモノじゃなくなる。そんな時はとんでもなく良い家具が創れる。当然、ブッチギリで速くもある。その為には準備も必要だ。前夜から製作物の寸法や角度を頭に叩き込む。作業工程を一から何度も何度もイメージする。帰りの車の中、晩飯、風呂、何をやってる時もずっとだ。そんで、歩き方の一歩までイメージ出来たらそのまま寝る。すると大抵、夢の中でも考えられる。意外と良いアイデアが出たりする時もある。朝には髪の先まで集中できてる。作業の直前まで確認をして、よーいドンだ。だから、「速い」は職人にとって「どれだけこの仕事マジでヤッてますか?」ってことだ。そして、会社を持続させる事において「仕事が速いヤツ」っていうのは「最高に仕事がデキるヤツ」だ。なぜなら儲かるからだ。俺たちはアーティストじゃない。作ってなんぼの職人だ!椅子一脚の極一部の仕上げだが、難易度の高い部分がある。道具は刀、鉋とサンドペパーだ。今までの若い衆の平均が60分前後。俺がサラッとやって30分。だから、「60分でいいけど、30分で出来たらホメてやるよ〜」そしたら28分だった。マジかよ?じゃあイッチョやってやろうか?!で俺が22分。そしたら18分を出してきた。この野郎!で俺が15分彼女は18分を切れず。もう一回、俺がダメ押しの13分で勝負ありだ。でも、これに関しては、あと少しで抜かれるな〜と思う。。笑今年、賞や海外展示などで大活躍だったKOMA初の量産モデルであるsim chairは彼女のおかげでうまれた椅子だ。KOMAの椅子は量産と言えど職人技を多く盛り込む。その為、量産型を維持継続は技術の維持継続とイコールだ。今までは俺にしか出来なかった刀などで行う仕上げ作業は製産数に限りがある。一人ではとても出来ない。でもずっとやりたかった事の一つだ。その目標が叶って、会社の可能性を大きく変えたと思う。そのおかげで、若い衆一人一人の成長が会社全体に大きな影響を与える事を知った。それも、俺だけでは絶対出来ないトンでもなく大きな影響だ。こっちが本気で期待すれば、人はそれ以上で応える努力をしてくれるってことを教えてもらった。親方から受け継いだ技術を繋げる子がやっと出てきた。俺にとってマイちゃんは宝そのものである。そんなマイちゃんに片思いを続けた男がいる。最年長のエビちゃんだ。最近独立をした。 I call her "Mai-chan". I recognize her as something like gift from God or Buddha. She now is indispensable member of KOMA. She takes larger roles in...
荻野 隆雄
【荻野 隆雄】荻坊とよんでいる。2008年。ちょうど俺が30歳の頃。25歳で始めたKOMAは(株)KOMAになった。若い衆に対して今でもかなり厳しいが当時はそれの比ではない。例えば、声が小さい時。現在は「声が小せえ〜」当時は「なに言ってっか聞こえねえんだよ!ブッ殺すぞ!」例えば、遅刻しちゃったら。現在は、昨日も遅かったしな〜でなにも言わない。当時は、ヘタしたらクビだ。そんな環境だから当然誰もついてこない。あの頃いてくれた子たちには本当に申し訳ないと思うが、今でもみんな連絡をくれて繋がれている事に感謝している。そんな時に入ってきたのが24歳の荻坊だ。当然、例に漏れず半年程の付き合いだった。「オマエはウチでやってくの無理じゃね?」みたいなニュアンスだったと思う。思い返してみると自己嫌悪に陥りそうになる。。まだ若くて血の気が多すぎた。過去には戻れないから今に活かす。などと言い訳ばかりがうかんでしまう。。その時、荻坊は「ゼッテエ諦めないっす!」と他の家具工房に移った。「でもたまに遊びに来てイイっすか?」とも言ってくれた。その宣言どおりちょくちょく顔を出してくれた。おかげで関係は繋がった。ありがたい。2年が経った2010年。「会社がヒマで今月休みなんすよ」と荻坊。「だったらその間手伝ってくれよ〜」で事件が起こる。右手中指切断の大怪我だ。「119番って何番だ!!?」なんてパニクリながら救急車を呼んだ。手術とリハビリを終え半年後、紆余曲折は割愛するが、1年後に独立を前提でKOMAに戻ってくる事になる。一緒に働くのは2度目だ。売上や自身の製産スキルなど、独立を想定したトライは厳しいものだった。荻坊にとって落ち込む結果になった。そして、家具職人の道を諦めることになる。そんな話し合いをして工場で2人、深夜までスケボーをして盛り上がった。荻坊は地元である埼玉に戻り、「やっぱり木に携わりたい」と盆栽屋に就職する。2度目も何も助けになることは出来なかった。それから徐々に厳しすぎる環境ではなくなり、やっと人材が定着してきたか?などと思っていた。2014年の7月、2年目の若い衆が突然バックレた。今までにも数人いるが、古今東西よくいる若者のよくある姿で、少なからず存在する。そういった相手には、身の丈以上の期待をしないでほどほどにが大切だ。ということを学んだ。10月、入社1年半の若い衆が辞めた。ヤル気もあって、ちょうど技術も伸びてきて、今後が凄く楽しみなヤツだったが、会社として彼の家族の信頼を得れなかった事に本当に申し訳ないと思っている。自分よりも家族を選んだ彼を尊敬している。役割、それに伴う給与、様々な基準やルールなどなどの明確化が必要だと分かった。何れにせよ若い衆が続かない。もうイヤでも反省するしかない。自分に問題がある。職人で残ったのは、俺、亀井、6年目だが半独立状態の海老沢、今は仕上げのエースとして活躍中だが当時は、まだまだの舞子の4人だけになった。困った。仕事はあるけど人がいない。この状況にただの素人はキツい。会社との相性もある。。。どうするか。。。2014年11月のある深夜、荻坊に会いに行った。群馬かどこかの駅前で、地べたに座り酒盛りをしながらスケーボーをした。「助けてくれねえか?」を言いに行った。「そこまで言われて断る理由は無いっすよ!」戻ってきてくれた。本当にありがたい。荻坊と一緒に働くのはこれで3度目になる。前の2度とも荻坊の助けになる事ができなかった。そして3度目は、俺が助けてもらう事になった。ギブアンドテイクになってねえ。荻坊は職人としての成長を見せた。特に「鉋」は急成長だった。年内に俺に追いつくなんて言ってた。そして何より、会社全体の事や若い衆の教育にも目を向けてくれた。そして今、荻坊は営業に転向してくれた。「KOMAってもったいないっすよ」「KOMAに足りないのは営業力」「もっといろんな人に知ってほしい」また助けてもらう事になった。気さくで明るい性根は人に可愛がられる。一つの結果が大きく彼を成長させるだろうと思う。最近、俺からの身の丈以上の期待と要望に向き合い応える覚悟が見えてきたように思う。そんな荻坊は俺にとって今、希望の光であり最も信頼出来る人間の一人だ。そして何より、「黙って信じて待てば良い」と思える切っ掛けを創ってくれたように思う。これは会社経営にとって大きな進歩だ。スケボー スノボー サーフィンと公私ともに仲間なのである!そしてこれからも助けてもらうのである!!笑誰よりも人との繋がりを大切にする荻坊が紹介してくれたのが、今や椅子仕上げのエースとして活躍している武内舞子だった。 I call him "Ogi-bo". 2008. When I was 30 years old. KOMA, I established the I was 25 years old, became KOMA co., ltd. I am still tough...
荻野 隆雄
【荻野 隆雄】荻坊とよんでいる。2008年。ちょうど俺が30歳の頃。25歳で始めたKOMAは(株)KOMAになった。若い衆に対して今でもかなり厳しいが当時はそれの比ではない。例えば、声が小さい時。現在は「声が小せえ〜」当時は「なに言ってっか聞こえねえんだよ!ブッ殺すぞ!」例えば、遅刻しちゃったら。現在は、昨日も遅かったしな〜でなにも言わない。当時は、ヘタしたらクビだ。そんな環境だから当然誰もついてこない。あの頃いてくれた子たちには本当に申し訳ないと思うが、今でもみんな連絡をくれて繋がれている事に感謝している。そんな時に入ってきたのが24歳の荻坊だ。当然、例に漏れず半年程の付き合いだった。「オマエはウチでやってくの無理じゃね?」みたいなニュアンスだったと思う。思い返してみると自己嫌悪に陥りそうになる。。まだ若くて血の気が多すぎた。過去には戻れないから今に活かす。などと言い訳ばかりがうかんでしまう。。その時、荻坊は「ゼッテエ諦めないっす!」と他の家具工房に移った。「でもたまに遊びに来てイイっすか?」とも言ってくれた。その宣言どおりちょくちょく顔を出してくれた。おかげで関係は繋がった。ありがたい。2年が経った2010年。「会社がヒマで今月休みなんすよ」と荻坊。「だったらその間手伝ってくれよ〜」で事件が起こる。右手中指切断の大怪我だ。「119番って何番だ!!?」なんてパニクリながら救急車を呼んだ。手術とリハビリを終え半年後、紆余曲折は割愛するが、1年後に独立を前提でKOMAに戻ってくる事になる。一緒に働くのは2度目だ。売上や自身の製産スキルなど、独立を想定したトライは厳しいものだった。荻坊にとって落ち込む結果になった。そして、家具職人の道を諦めることになる。そんな話し合いをして工場で2人、深夜までスケボーをして盛り上がった。荻坊は地元である埼玉に戻り、「やっぱり木に携わりたい」と盆栽屋に就職する。2度目も何も助けになることは出来なかった。それから徐々に厳しすぎる環境ではなくなり、やっと人材が定着してきたか?などと思っていた。2014年の7月、2年目の若い衆が突然バックレた。今までにも数人いるが、古今東西よくいる若者のよくある姿で、少なからず存在する。そういった相手には、身の丈以上の期待をしないでほどほどにが大切だ。ということを学んだ。10月、入社1年半の若い衆が辞めた。ヤル気もあって、ちょうど技術も伸びてきて、今後が凄く楽しみなヤツだったが、会社として彼の家族の信頼を得れなかった事に本当に申し訳ないと思っている。自分よりも家族を選んだ彼を尊敬している。役割、それに伴う給与、様々な基準やルールなどなどの明確化が必要だと分かった。何れにせよ若い衆が続かない。もうイヤでも反省するしかない。自分に問題がある。職人で残ったのは、俺、亀井、6年目だが半独立状態の海老沢、今は仕上げのエースとして活躍中だが当時は、まだまだの舞子の4人だけになった。困った。仕事はあるけど人がいない。この状況にただの素人はキツい。会社との相性もある。。。どうするか。。。2014年11月のある深夜、荻坊に会いに行った。群馬かどこかの駅前で、地べたに座り酒盛りをしながらスケーボーをした。「助けてくれねえか?」を言いに行った。「そこまで言われて断る理由は無いっすよ!」戻ってきてくれた。本当にありがたい。荻坊と一緒に働くのはこれで3度目になる。前の2度とも荻坊の助けになる事ができなかった。そして3度目は、俺が助けてもらう事になった。ギブアンドテイクになってねえ。荻坊は職人としての成長を見せた。特に「鉋」は急成長だった。年内に俺に追いつくなんて言ってた。そして何より、会社全体の事や若い衆の教育にも目を向けてくれた。そして今、荻坊は営業に転向してくれた。「KOMAってもったいないっすよ」「KOMAに足りないのは営業力」「もっといろんな人に知ってほしい」また助けてもらう事になった。気さくで明るい性根は人に可愛がられる。一つの結果が大きく彼を成長させるだろうと思う。最近、俺からの身の丈以上の期待と要望に向き合い応える覚悟が見えてきたように思う。そんな荻坊は俺にとって今、希望の光であり最も信頼出来る人間の一人だ。そして何より、「黙って信じて待てば良い」と思える切っ掛けを創ってくれたように思う。これは会社経営にとって大きな進歩だ。スケボー スノボー サーフィンと公私ともに仲間なのである!そしてこれからも助けてもらうのである!!笑誰よりも人との繋がりを大切にする荻坊が紹介してくれたのが、今や椅子仕上げのエースとして活躍している武内舞子だった。 I call him "Ogi-bo". 2008. When I was 30 years old. KOMA, I established the I was 25 years old, became KOMA co., ltd. I am still tough...
ウチの若い衆
そう言えば俺は「木工作家」なるものになりたくて独立したのだったことを思い出した。たった二年できれいサッパリ辞めることになるのだが、今となってはどうでも良い。早い段階で「一人じゃなんにも出来ねえ」ってことが知れて良かったと思っている。生き残っていく為には、投資した時間や金に執着しないで時にはサッパリ諦めて、トライ&エラーの回転数を出来るだけ速くすることが重要だと今は思うからだ。日、月、年といろんな回転軸が持てるとイイと思う。独立してすぐの25歳から、ありがたい事に百貨店の催事で「全国クラフトフェアー」や「椅子のオーダー相談会」「実演販売」などに呼んでもらえる機会を得た。なかなか出入りするのが難しい百貨店に独立1年目から呼んでもらえて、木工作家としての第一歩だ!なんて浮かれていたが、すぐに「そんな甘くない」を知る。今思えば、超アマちゃんだが当時はそれなりの自信があった。きっと10年後には今を振り返って同じように思うのだろうが。。売り場には北海道から九州まで全国の家具作家が集まっていた。隣のブースは集成材の板をBOX状にした組み立て家具。俺の家具はカンナやカタナを駆使した無垢材の削り出し。余裕で通用するな〜なんて思った。正直に言うと「勝ったな!」なんて思ってた。ココから先は想像どおり。俺の家具は全く売れない。隣のおじさんの家具はバンバン売れる。2週間の期間が終わって売上の差は10倍以上だと思う。イヤでも気付く。彼には数十年を継続した歴史があるのだということ。それに伴う顧客がいた。数十年も掛けて積み上げられた「売る環境」があるのだ。そして、人に使ってもらえて初めて商品としての価値があるのだ。作るだけじゃない。知ってもらい販売に繋げる努力の継続。当たり前だが、そうして持続可能なものづくりが出来るのだと知る。俺には作るしかない。だから人に使ってもらえない。商品としての価値が無いのと等しいという事を知る。そんな当たり前も知らずに調子に乗って独立してしまったのだ。俺と、このおじさん。。勝つとか負けるとかじゃない。数十年の積み上げの差。次元が違う。恥ずかしくなった。そんな事を1年繰り返した。結果はどれも散々。惨敗だった。ある催事で、修業時代から目をかけてくれている営業マンの三浦さんが販売の手伝いに来てくれた。「良い家具つくってんだから〜自信もてよ〜」でもやはり惨敗だった。なんの継続も無い人間に社会で結果なんて出るはずが無い。三浦さんにも申し訳ないと思った。その夜、二人でラーメンを食べた。なんだか急に泣けてきた。「オイオイ!ど〜したんだよ〜情けねえな〜男だろ〜」江戸弁で言いながら三浦さんも泣き始めた。「悔しいな〜」二人で言いながら嗚咽した。26歳と70歳が嗚咽しながらラーメンを食ってる様は、周りから見れば異様な光景だっただろう。こちらを伺っていた大学生らしき若者数人に「見せモンじゃねんだよコラァ!!」26歳と70歳で当たり散らした。とにかく悔しかった。そして、木工作家はきれいサッパリやめることにした。人よりちょっと作れる位じゃどうにもなんねえ。このまま続けたら、何となくメシは食えるようになるだろう。でもそうじゃない。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。目標は変えない。なぜなら、先輩達から引き継いだバトンを最高のカタチで後輩達に繋ぎたいからだ。俺一人では、それを叶えるための能力は無いってことを思い知らされた。だったら、チームとして目指そう!に切り替えた。小さくても良い。役割分担ができる組織を創ろう。んで、俺は人よりちょっと作れるじゃなくて圧倒的に作れるってところまで、ものづくりを突き詰めようと思った。まず一年前に喧嘩別れした亀井に声を掛ける。断られるも半年かけて口説く。環境整備のため、出来る仕事は何でもやろう。1年で1000万貯める。工場を引っ越そう。設備を入れよう。若い衆を雇おう。10ヶ月で叶えた。人材育成が始まる。イイ子達に恵まれているにも関わらず定着しない。全て俺の問題だと知るのに10年かかった。今は、本当にスゲー奴らに恵まれたと思う。神様だか仏様だかに感謝する。そんで、やっぱり。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。引き継いだバトンを最高のカタチで繋ぎたいんだ。チームとして叶えるんだ。なんつってまた俺のアホみたいな話で前置きが長くなっちゃった。。。「ウチの若い衆」次回から本番!世界一の若い衆たちだ。 I have remembered I had started my own business to become a creator of woodworks. I completely gave it up just after 2 years later, which I do...
ウチの若い衆
そう言えば俺は「木工作家」なるものになりたくて独立したのだったことを思い出した。たった二年できれいサッパリ辞めることになるのだが、今となってはどうでも良い。早い段階で「一人じゃなんにも出来ねえ」ってことが知れて良かったと思っている。生き残っていく為には、投資した時間や金に執着しないで時にはサッパリ諦めて、トライ&エラーの回転数を出来るだけ速くすることが重要だと今は思うからだ。日、月、年といろんな回転軸が持てるとイイと思う。独立してすぐの25歳から、ありがたい事に百貨店の催事で「全国クラフトフェアー」や「椅子のオーダー相談会」「実演販売」などに呼んでもらえる機会を得た。なかなか出入りするのが難しい百貨店に独立1年目から呼んでもらえて、木工作家としての第一歩だ!なんて浮かれていたが、すぐに「そんな甘くない」を知る。今思えば、超アマちゃんだが当時はそれなりの自信があった。きっと10年後には今を振り返って同じように思うのだろうが。。売り場には北海道から九州まで全国の家具作家が集まっていた。隣のブースは集成材の板をBOX状にした組み立て家具。俺の家具はカンナやカタナを駆使した無垢材の削り出し。余裕で通用するな〜なんて思った。正直に言うと「勝ったな!」なんて思ってた。ココから先は想像どおり。俺の家具は全く売れない。隣のおじさんの家具はバンバン売れる。2週間の期間が終わって売上の差は10倍以上だと思う。イヤでも気付く。彼には数十年を継続した歴史があるのだということ。それに伴う顧客がいた。数十年も掛けて積み上げられた「売る環境」があるのだ。そして、人に使ってもらえて初めて商品としての価値があるのだ。作るだけじゃない。知ってもらい販売に繋げる努力の継続。当たり前だが、そうして持続可能なものづくりが出来るのだと知る。俺には作るしかない。だから人に使ってもらえない。商品としての価値が無いのと等しいという事を知る。そんな当たり前も知らずに調子に乗って独立してしまったのだ。俺と、このおじさん。。勝つとか負けるとかじゃない。数十年の積み上げの差。次元が違う。恥ずかしくなった。そんな事を1年繰り返した。結果はどれも散々。惨敗だった。ある催事で、修業時代から目をかけてくれている営業マンの三浦さんが販売の手伝いに来てくれた。「良い家具つくってんだから〜自信もてよ〜」でもやはり惨敗だった。なんの継続も無い人間に社会で結果なんて出るはずが無い。三浦さんにも申し訳ないと思った。その夜、二人でラーメンを食べた。なんだか急に泣けてきた。「オイオイ!ど〜したんだよ〜情けねえな〜男だろ〜」江戸弁で言いながら三浦さんも泣き始めた。「悔しいな〜」二人で言いながら嗚咽した。26歳と70歳が嗚咽しながらラーメンを食ってる様は、周りから見れば異様な光景だっただろう。こちらを伺っていた大学生らしき若者数人に「見せモンじゃねんだよコラァ!!」26歳と70歳で当たり散らした。とにかく悔しかった。そして、木工作家はきれいサッパリやめることにした。人よりちょっと作れる位じゃどうにもなんねえ。このまま続けたら、何となくメシは食えるようになるだろう。でもそうじゃない。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。目標は変えない。なぜなら、先輩達から引き継いだバトンを最高のカタチで後輩達に繋ぎたいからだ。俺一人では、それを叶えるための能力は無いってことを思い知らされた。だったら、チームとして目指そう!に切り替えた。小さくても良い。役割分担ができる組織を創ろう。んで、俺は人よりちょっと作れるじゃなくて圧倒的に作れるってところまで、ものづくりを突き詰めようと思った。まず一年前に喧嘩別れした亀井に声を掛ける。断られるも半年かけて口説く。環境整備のため、出来る仕事は何でもやろう。1年で1000万貯める。工場を引っ越そう。設備を入れよう。若い衆を雇おう。10ヶ月で叶えた。人材育成が始まる。イイ子達に恵まれているにも関わらず定着しない。全て俺の問題だと知るのに10年かかった。今は、本当にスゲー奴らに恵まれたと思う。神様だか仏様だかに感謝する。そんで、やっぱり。世界一になりたいんだ。歴史を創りたいんだ。引き継いだバトンを最高のカタチで繋ぎたいんだ。チームとして叶えるんだ。なんつってまた俺のアホみたいな話で前置きが長くなっちゃった。。。「ウチの若い衆」次回から本番!世界一の若い衆たちだ。 I have remembered I had started my own business to become a creator of woodworks. I completely gave it up just after 2 years later, which I do...